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「お願いです、こうでもしないと気が済まないので」と、剛毛美人に土下座されて…

かなめさんから投稿頂いた「「お願いです、こうでもしないと気が済まないので」と、剛毛美人に土下座されて…」。 「事実は小説より奇なり」と言いますが、私も何度かそういう経験があります。 これも、そのひとつです。 今から40年くらい前(昭和50年代、私が20代の頃)、私は夏に1週間ほど一人でドライブ旅行をしていた。泊まるところも決めずに九州をめぐっていた。ある港に車を停めて景色を見ていると、母娘と思われる2人連れが「お願いです!乗せてもらえませんか?」と近付いてきた。ヤバそうな感じでもないし、どこか行きたいところがあるのかと思い「どこに行けばいいですか?」と聞くと、「お兄さんはどこまで?」と聞かれたので、今日の宿泊予定地とまだ宿は予約してないと告げた。すると「ご一緒してもいいですか?」と予想外の言葉が返ってきた。 返事をにごしながら、運転しながらいろいろ話しを聞いた。母娘ではなく、おば(美樹さん・30歳)とめい(マヤちゃん・小5)だった。 母親(美樹さんの姉)が病気で亡くなった後、父親がマヤちゃんに暴力を振るい、それを知った美樹さんが説得したが、逆に暴行されそうになり、それで父親が仕事から戻る前に逃げてきたという。 「今からどうするんですか?」と聞くと、美樹さんは小学校の先生には既に事情を伝えて2学期からの転校先や住居も決めているが、予定より早く逃げ出すことになってしまい、少なくとも半月は友人や知人の家を転々としなければ…と考えていたという。 今のようにスマホやネットもなく、今考えれば、とても不安な状況だったにちがいない。 私に声をかけたのは、やさしそうだし一人だったし車があったからだそうだ。 「俺でよければ、半月なら一緒に過ごしましょうか?」と言うと、とても喜んでくれた。 その夜、ホテルがとれたので別々の部屋で過ごしたが、私が寝ようとしたら部屋の電話が鳴った。 美樹さんだった。「マヤは寝ました。そちらに伺ってもいいですか?御礼もそこそこだったし」と。 「はい」と答えて電話を置くと、ホテルの浴衣を着た美樹さんが入って来た。 「あの…本当に半月も一緒でよろしいんですか?お金もほとんどないんです」と言う。さすがにお金のことはマヤちゃんの前では話しづらかったようだ。「気にしないでください。独身だし、これも人助けですよ」と答えた。 私は母子家庭で、幼い頃からいろんな人が家に来て、母にお金を渡してくれていた。 その人達はみんな「これも人助けだからね」と言っていた。 美樹さんは「でも、私がなにもしないわけには…」と言って、浴衣の帯をほどき下着姿になった。 「お願いです、こうでもしないと気が済まないので」と、布団の横の畳の上で土下座をされた。 私はドキドキしながらも、さすがに「気にしないでください、マヤちゃんと一緒に寝てあげて」と言ったが、美樹さんは動こうとしない。 私は根負けした。 「わかりました。美樹さんの気の済むように、お願いします」と言って布団の上に仰向けに寝た。 美樹さんは「ありがとうございます」と言って私の浴衣を脱がせ、自分で下着をすべて脱いで全裸になり私に抱きついてきた。160cmくらいで普通体型だったと思うが、私よりも広範囲の黒々とした茂みと豊かに隆起した「もりまん」は今でも鮮明に覚えている。フェラチオはなく即座に怒張した私の男茎を騎乗位の体勢で女陰に没入させた。何度も「気持ちいいですか?」と聞かれたのもよく覚えている。当時、交際相手のいなかった私は久しぶりの素人女性だった。聞かれるたびに「うん、とても気持ちいいよ」と答えた。「気が済むまで出してください」と言われたので、本当に何度も何度も男汁を放出した。ずっと騎乗位だったので、途中からお互いの淫汁が混じり合ってとても卑猥な匂いが充満した。私は「このままだと美樹さんがマヤちゃんの部屋に戻れなくなる」と思い、何度目かの絶頂の後で寝たふりをした。美樹さんは何度か私の名前を呼んでくれたが、もう寝たものと思ってくれたようで、浴衣を着直して部屋を出るのが分かった。 次の日から、美樹さんとマヤちゃんとの旅が始まった。 2日目になるとふたりとも安心したのか、笑顔も出るようになった。 このふたりと一緒なのもあと半月か…そう思うと、逆に寂しかったのを覚えている。 もちろん続編もあります。誰かに読んでいただければ、ありがたいです。 写真はイメージです。

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かなめさんから投稿頂いた「「お願いです、こうでもしないと気が済まないので」と、剛毛美人に土下座されて…」。

「事実は小説より奇なり」と言いますが、私も何度かそういう経験があります。
これも、そのひとつです。

今から40年くらい前(昭和50年代、私が20代の頃)、私は夏に1週間ほど一人でドライブ旅行をしていた。

泊まるところも決めずに九州をめぐっていた。ある港に車を停めて景色を見ていると、母娘と思われる2人連れが「お願いです!乗せてもらえませんか?」と近付いてきた。

ヤバそうな感じでもないし、どこか行きたいところがあるのかと思い「どこに行けばいいですか?」と聞くと、「お兄さんはどこまで?」と聞かれたので、今日の宿泊予定地とまだ宿は予約してないと告げた。すると「ご一緒してもいいですか?」と予想外の言葉が返ってきた。


返事をにごしながら、運転しながらいろいろ話しを聞いた。母娘ではなく、おば(美樹さん・30歳)とめい(マヤちゃん・小5)だった。
母親(美樹さんの姉)が病気で亡くなった後、父親がマヤちゃんに暴力を振るい、それを知った美樹さんが説得したが、逆に暴行されそうになり、それで父親が仕事から戻る前に逃げてきたという。


「今からどうするんですか?」と聞くと、美樹さんは小学校の先生には既に事情を伝えて2学期からの転校先や住居も決めているが、予定より早く逃げ出すことになってしまい、少なくとも半月は友人や知人の家を転々としなければ…と考えていたという。


今のようにスマホやネットもなく、今考えれば、とても不安な状況だったにちがいない。
私に声をかけたのは、やさしそうだし一人だったし車があったからだそうだ。
「俺でよければ、半月なら一緒に過ごしましょうか?」と言うと、とても喜んでくれた。


その夜、ホテルがとれたので別々の部屋で過ごしたが、私が寝ようとしたら部屋の電話が鳴った。
美樹さんだった。「マヤは寝ました。そちらに伺ってもいいですか?御礼もそこそこだったし」と。
「はい」と答えて電話を置くと、ホテルの浴衣を着た美樹さんが入って来た。


「あの…本当に半月も一緒でよろしいんですか?お金もほとんどないんです」と言う。さすがにお金のことはマヤちゃんの前では話しづらかったようだ。「気にしないでください。独身だし、これも人助けですよ」と答えた。


私は母子家庭で、幼い頃からいろんな人が家に来て、母にお金を渡してくれていた。
その人達はみんな「これも人助けだからね」と言っていた。
美樹さんは「でも、私がなにもしないわけには…」と言って、浴衣の帯をほどき下着姿になった。


「お願いです、こうでもしないと気が済まないので」と、布団の横の畳の上で土下座をされた。
私はドキドキしながらも、さすがに「気にしないでください、マヤちゃんと一緒に寝てあげて」と言ったが、美樹さんは動こうとしない。
私は根負けした。


「わかりました。美樹さんの気の済むように、お願いします」と言って布団の上に仰向けに寝た。
美樹さんは「ありがとうございます」と言って私の浴衣を脱がせ、自分で下着をすべて脱いで全裸になり私に抱きついてきた。160cmくらいで普通体型だったと思うが、私よりも広範囲の黒々とした茂みと豊かに隆起した「もりまん」は今でも鮮明に覚えている。

フェラチオはなく即座に怒張した私の男茎を騎乗位の体勢で女陰に没入させた。何度も「気持ちいいですか?」と聞かれたのもよく覚えている。当時、交際相手のいなかった私は久しぶりの素人女性だった。聞かれるたびに「うん、とても気持ちいいよ」と答えた。

「気が済むまで出してください」と言われたので、本当に何度も何度も男汁を放出した。ずっと騎乗位だったので、途中からお互いの淫汁が混じり合ってとても卑猥な匂いが充満した。私は「このままだと美樹さんがマヤちゃんの部屋に戻れなくなる」と思い、何度目かの絶頂の後で寝たふりをした。

美樹さんは何度か私の名前を呼んでくれたが、もう寝たものと思ってくれたようで、浴衣を着直して部屋を出るのが分かった。
次の日から、美樹さんとマヤちゃんとの旅が始まった。


2日目になるとふたりとも安心したのか、笑顔も出るようになった。
このふたりと一緒なのもあと半月か…そう思うと、逆に寂しかったのを覚えている。

もちろん続編もあります。誰かに読んでいただければ、ありがたいです。
写真はイメージです。

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コメント一覧 (2件)

  • 優しい貴方に声がけした女性、良かったですね またお話聞かせてください

  • 有希様
    読んでいただき、ありがとうございます。

    当時のことを、さらに少しずつ思い出してきました。
    また、まとまり次第、投稿しますね。

    質問とかなにか、ありますか?

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