工藤澄子さんから投稿頂いた「私が墓場まで持っていく35年前の裏本」。
私は、東北の田舎町の中流家庭に生まれ、特に苦労することもなく育ちました。
特に頭がいいわけでもなく、丸顔にエクボが可愛い童顔少女と言われましたが、だからと言ってアイドル級の美少女でもなく、何事も中途半端でした。
そんな私は、地元の私立高校を出て、隣の県庁所在地に就職し、人並みに恋をして初体験をして、成人した頃、急にモテ期が来ました。
みんなに可愛い、可愛いと言われ、丸顔童顔を活かして三つ編みで純情乙女を気取ったら、男性を選び放題になりました。
そうやって、19歳の初体験から22歳までに、既婚独身合わせて10人以上のイケメン男性に抱かれました。
この頃、空前の好景気がやってきていて、これは後にバブル景気と言われました。
私は、そんな前触れとも知らず、世の中が浮足立っていたのと同じに、私が見た目の幼さでロリコンにモテてただけと気が付かず、調子に乗っていました。
友達とディズニーランドに行った時、ある事務所にスカウトされ、後日上京しました。
そして接待風にお酒を飲まされ、そこに媚薬のようなものを入れられ、グラビア撮影と称して裏本を撮影されました。
それはセーラー服を着たとても淫らなものでしたが、記憶が半分くらいしかないのです。
翌日、ホテルで目を覚ますと、私のトレードマークの三つ編みは切り落とされ、ショートカットになっていました。
前日のスタッフの方に、三つ編みのウィッグを手渡され、
「暫くはこれで過ごしてみて。」
と言われて、モデル料の50万円を貰って帰郷しました。
その後、あのいかがわしい撮影は何だったんだろう、と思いましたが、私の淫らなグラビアは目にすることはありませんでした。
私は、その後もモテ続けましたが、25歳の頃からモテ方に陰りが見えたのを感じました。
当時、イケメンばかりに抱かれていた私でしたが、25歳にもなると、男性を見た目じゃなく、内面で見るようになっていました。
その頃綿委は、同じ職場で一つ年下の男性に心を寄せていました。
彼は優しくて誠実な男性で、会話してるととても落ち着いて、ずっと一緒に居たいと思える男性でした。
そして、職場旅行(当時は普通でした)の宴会の時、彼の隣に陣取って、いわゆるカマトトを使って彼を惑わせました。
これが功を奏して、職場では彼が良く話しかけてくれるようになって、私も彼が話しかけると可愛く応じていました。
当時は半ドンと言って土曜日は午前通仕事だったから、彼に土曜のランチを誘われ、その後ディナーに誘われ、デートに誘われ、そして私26歳、彼25歳で初めて抱かれました。
彼のアパートに誘われて、上がり込むといきなり抱き寄せられ、見つめ合い、キスしました。
心惹かれた彼のにおk¥位に包まれながらのキスは、もう、それだけで濡れました。
この時、私は約1年間彼氏無しで、25歳までに、既婚独身合わせて20人以上のイケメン男性に抱かれてきた私でしたが、キスだけで濡れたのははじめtでした。
彼に見つめられて、
「澄子さん・・・可愛いです・・・」
と言われてもうアソコはずぶ濡れ、
「澄子さんは止めて・・・澄子って呼んで・・・」
と言うと、スカートのの課に手を入れられ、アソコを撫でられて湿っているのがバレると、スカートを脱がされ、パンツを下げられて直接指で弄られました。
「澄子・・・濡れてるね・・・」
「あなたが欲しい・・・入れて・・・」
上は着衣のまま、対面座位で繋がりました。
コンドームはしておらず、生で大好きな彼を感じました。
このまま中で彼の精液を出して欲しい、本気でそう思えるセックスでした。
この頃には髪も伸びて、三つ編みが復活していた私は、その三つ編みをg¥振り乱して喘いでしまいました。
彼は私のお腹に射精し、精液をティッシュで拭きながら、
「俺と、結婚を考えて欲しい・・・」
と言いました。
私はコクリと可愛く頷きました。
彼26歳、私27歳で結婚したのは、もう32年前のことです。
この頃から、バブルが弾けだしていましたが、それに気づくものは誰もいませんでした。
新婚時代は、彼に求められてセーラー服着て背クスして、それをハンディカムで撮影していました。
27歳のセーラー服はさすがにと思いましたが、彼は、可愛い可愛いと言って、ン¥セーラー服中出しセックスを撮影していました。
そしてセーラー服妊婦セックスで撮影が終わりました。
その後、二児を儲け、私は仕事を辞めて子育てと家事に専念しながら、毎晩のように年下の夫に抱かれる日々を過ごしてきました。
結婚して10年の頃、バブルが弾けて不動産が暴落したおかげで、私達でも手が届く値段で中古住宅を手に入れました。
家族4人、楽しく暮らしました。
彼は、それまではアパートでADSL回戦だったネット歓呼湯を光にし、子供たちが学校に行っているときに快適なネットサーフィンを楽しんでました。
そして、それは今から20年前、何かの拍子でクリックしたアイコンがエロサイトで、「懐かしい裏本」というサイトに繋がりました。
私は、初めて見た裏本という世界に釘付けとなり、昭和から平成にかけて発刊された裏本を凝視していました。
表紙をクリックすると、裏本の中が表示され、無修正の女性器と男性器がモロ写りでした。
そして、私はあるうえ¥ラ本に釘付けとなりました。
モデルは、ショートカットのセーラー服が似合う幼顔の女の子でした。
それは紛れもなく、私でした。
クスリを盛られ、意識朦朧の中、グラビア撮影と称して、セーラー服を着て淫らな撮影をしたあの写真が、ネットに上がっていました。
セーラー服をまくりあげて、乳房を見せ、その後、スカートをまくってノーパンのアソコを両手で開きました。
恥ずかしそうに頬を染めているように見えましたが、あれはお酒で寄っているのです。
撮影された時、私は23歳、見た目は幼い女の子でしたが、既に10人以上の男性を知っていましたから、まるで女子高生の湯男な見た目でも、アソコは大人でした。
開かれたアソコは、ぽっかりしてて、ビラビラはスケベそうに色付き、その大人しそうな幼顔からは想像できない淫らなアソコでした。
軽くフェラのあと、開脚して結合部を丸出しにしながら騎乗位でズッポリ挿入、騎乗位から後背位とつながって、最後は正常位で突かれ、ウットリ感じていました。
フィニッシュは乳房の間に向けてかなりの大量射精でした。
23歳ですでに着色した私のスケベそうなアソコのアップが、無修正でたくさん画面を彩っていました。
説明を見ると、1988年発刊とあり、撮影された翌年に出版されたと知りました。
私は、裏本に出て50万円を貰っていたのでした。
私は、その裏本の画像をダウンロードし、CD-Rに保存しました。
そして時々、一人でそれを眺め、淫らな自分を確かめて濡れていました。
独身時代の若気の至り、イケメンの既婚男性二人に一晩中輪姦されたこと、職場の上司にお尻の穴を犯されて、中に出されて下痢したこと、色々思い出されました。
25歳で彼一人にすると誓い、色仕掛けで落とした過去・・・なぜかあの裏本の画像を見ると思い出すのです。
そんな私も、来年は還暦を迎えます。
昨夜、いい年して夫にエッチをおねだりして、抱いてもらいました。
59歳の私と、58歳の夫、いい年して、今でも週に2回くらいセックスがありますが、つい、あの35年前に発刊された裏本の画像を見てしまった夜は、夫が欲しくなります。
6年前に閉経して以来、毎回中にもらっていますが、愛する夫の熱い精液が中に出されるとき、幸せを感じます。
中に出されると、後々漏れ出て厄介なのですが、夫婦愛なのでしょうか、夫も私も中に出す行為がたまらなく好きなのです。
夫以外の精液は汚いと感じるのに、夫の精液は欲しくて仕方ないのです。
33年前、初めて対面座位で夫を生で受け入れて以来、コンドームは一度も使ってない私は、毎回夫の精液が中に欲しくて仕方ありませんでした。
でも、安全日以外はそれをすることができませんでしたが、6年前からは毎回中にもらえます。
夫のものが抜かれた後、トロ~っと流れ出る精液の感覚は、ああ~セックスしたんだ~という充実感のようなものを感じるのです。
昨夜、そんな充実感を感じ、今日、午前中にお掃除しているとき、アソコから昨夜の夫の残りが漏れ出たのを拭いていたら、あの裏本データを思い出しました。
あのデータ、そろそろ処分した方が良いと思ったのです。
私は、最後にPCで23歳の私の痴態を見て、CD-Rを割って捨てました。
あの裏本は、童顔だったからロリコンにモテてただけなのに勘違いして、色んな男性と関係を持った私の愚かな集大成に感じたのです。
だから、裏本の私は、墓場まで持っていくことにしました。
もう、孫がいる私は、ひっそりと熟年の性生活を送れれば、それが幸せだと思います。
還暦女を抱いてくれる夫がいる幸せを、噛みしめたいと思います。
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コメント一覧 (4件)
ん?
それって、オレが持ってる「風少女」っていう裏本な気がするなあ。
裏本のモデル。これも人生の一つのエポックでしたね。現代では、人妻がアダルトビデオに応募して出演すると言います。
今の幸せな結婚生活を大事になさって下さい。
オレも風少女は知ってるが、イメージが当てはまるね。
裏本、懐かしい