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お仕置きされて赤くなったC学2年の従姉のお尻

お仕置きされて赤くなった中学2年の従姉のお尻

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お仕置きされて赤くなったC学2年の従姉のお尻

スパンクマンさんから投稿頂いた「お仕置きされて赤くなったC学2年の従姉のお尻」。

30年以上前の出来事ですが、私がS学6年の時にC学2年の従姉が伯父に叱られてお尻を叩かれるお仕置きを受けているところを目撃してしまい、私の性的嗜好を決定してしまった体験をお話しようと思います。

当時S学6年の私にとっては2歳年上の従姉は大人に見えていましたが、まるで小さな子供がされるようにお尻を裸にされて叩かれる姿を見せられて衝撃を覚えました。
あの日以来、女の子がお尻を叩かれる場面に性的興奮を覚えるようになったことだけは間違いありません。
私の性癖を決めた印象深い出来事だっただけに、従姉がお仕置きされた当時のことは鮮明に記憶しています。
以下に時系列で語ります。

【1.従姉がお仕置きされている時の様子について】

私がS学6年生で親戚の従姉がC学2年生の時のことです。
季節は秋頃だったと思うのですが、休日に伯父の家に遊びに訪れたの時に、私は従姉とつまらないことで口論を始めてしまいました。
従姉はなぜかその日は機嫌が悪くて、私は従姉から頬を思いっきり殴られてしまい、唇が切れて出血してしまいました。
私が従姉に殴られた程度で唇を切ってしまったのは、私の前歯の歯列が悪かったことも原因だった気がします。
従姉自身も私の唇から赤い血が少し見えた瞬間は驚いた表情をしていました。

こうなった経緯までは話しが長くなるので省きますが、とにかくこの日の従姉はなぜか不機嫌でした。
今でも覚えていますが、普段の優しい従姉なら絶対に言わないような「うるさいな!、お前は!」と口汚く罵られてから、平手で頬を思いっきり殴られました。
私は殴られた反動で顔が真横に振れて、耳の奥でキーンという音が鳴り響いたのを覚えています。

あの日ほど不機嫌な従姉を見たことがなく、今まで殴られたことはもちろん『お前』呼ばわりされたこともなかったので、すごくショックでした。
S学生の頃から大人っぽい振舞いができる従姉だったのですが、この日の態度はまるで小さな子供みたいで、どうしてこの日に限って私を殴りたいぐらいの心境に至ったのか理由はさっぱりわかりませんでした。
ただ、手掛かりがあるとすれば、私が伯父の家を訪ねた時に伯父と従姉との間で諍いがあった気配はありました。
従姉が不機嫌だった理由を探すとすれば、これぐらいしかありませんでした。

誤解がないように言っておきますが、私はS学4年で転居して転校するまでは伯父の家の近所に住んでいて従姉と同じS学校へ通っていました。
従姉は私が幼少の頃から弟のように面倒を見てくれた、優しい姉のような存在だったので、決して仲が悪いわけではなく、男女の違いがある割には馬が合って、会えば楽しく時間を共有できる間柄でした。
私と従姉は読書が趣味だったので、共通の趣味があったことも馬が合った理由だったと思います。

当時の従姉はC学2年の割に身長が高く、明らかに私より背が高かったので、近くにいた伯父は従姉が私に手を出した瞬間を見て、娘がとんでもない乱暴をしたような印象を与えてしまったのかもしれません。
とにかく伯父は自分の娘の口汚い罵りと過激な暴力が許せなかったようで従姉を叱りました。

伯父は「ゴメンな、コイツにも今痛い目にあわせるから」と私に小声で囁くと、今度は従姉に向かって少し大きめの声で「こっちに来て尻(しり)出せ!」と命じました。
従姉は伯父の口調に怯えたようにビクッと反応して首をすくめると、伯父に腕を掴まれて居間のソファへ引っ張っていかれました。
伯父はソファに腰掛けると従姉の上半身を膝の上に俯せにして左腕で腰を抱え込み、右手でデニムのミニスカートを腰まで捲くりあげました。

従姉はC学2年生にもなって父親からお尻を叩かれるお仕置きを受けるのだとすぐに理解しました。
従姉はお尻を叩いて躾けられるには体が大きくなっていたので、躾けるなら拳で頭を叩いたり、顔の頬を平手で叩かれるものとばかり思っていました。
この日を除けばという前提ですが、そもそも当時の私の目から見て大人びた従姉は、普段から叱られて叩かれるようなことはしないものと思い込んでいたので、この事態に唖然としてしまいました。
従姉は思わず私に乱暴してしまったのでしょうが、事の重大さに気がついたのか、伯父の膝の上で暴れたりもせずに素直にお仕置きを頂戴する覚悟を決めていたように見えました。

伯父は従姉の俯せにさせた体を『への字』に折れ曲げるように、自分の右足より左足の膝だけ低くしてから左腕で背中を押さえつけました。
そのせいで従姉は床に両手をつけて上半身を支えるしかなくなり、女子C学生らしいプリッとした丸いお尻だけが上向きに突き出る恥ずかしい格好をさせられました。

従姉はスカートの下によく濃紺のブルマを履いていたのですが、この日はブルマは履いておらず、お尻は女子C学生らしい清楚な白いパンティで覆われていただけでした。
私は伯父が従姉のお尻を下着の上から叩くのだと思っていたのですが、まるでお尻を叩いて躾ける時の決まり事であるかのように、躊躇せず右手の指先で白いパンティの腰ゴムを摘むと、太腿の位置まで引き下げてしまいました。
お尻はプリッとした桃のような形をしていて、従姉は色白な肌をしていたのでお尻も同じように綺麗な白い肌をしていました。

銭湯の男湯で見かける裸の幼女のお尻とは違って、C学2年の従姉のお尻は成長過程ではあるものの女らしく脂肪がついて丸みを帯びていたので、“見てはいけない物”を見てしまったと思いました。
従姉もパンティを下げられた時に私の方を一瞬向いて、「恥ずかしいから見ないで」と訴えたいかのような決まりが悪い表情をしていました。

私にはS学1年の弟がいましたが、姉妹はいなかったので従姉の裸の下半身を目にしたことは衝撃でした。
実は従姉の裸体に近い姿と言えばS学生の時の水着姿ぐらいしか見た記憶がなく、よくある話だとは思いますが幼少期でさえ、伯父の家や自宅で従姉と一緒に入浴する機会すら無かったのです。

私はここ何年かブルマで遮られて見た記憶が無い従姉が履いていた白いパンティや、伯父の膝の上で山なりになって突き出た裸のお尻を見て性的興奮を覚えてしまい、S学生でまだ包皮を被ったままの小さな陰茎でしたが、すぐにブリーフの中で充血して硬く膨張しているのを自覚しました。
従姉には後ろめたいのですが、伯父は娘に躾のつもりでやった行為でも、私にとっては性的興奮を誘う見世物だったわけです。

何年か後になって気がついたのですが、伯父は当時の私をまだ小さな子供だと錯覚していたとしか思えません。
つまり、C学2年の娘の裸のお尻を私に見せても性的反応を示すとは思っていなかった気がします。

そして幼児がお仕置きされる時のような恥ずかしい姿勢をさせられた従姉は、伯父から平手でお尻を叩かれました。
お尻を平手で打ち据える『パンッ、パンッ』という大きな音が部屋中に鳴り響き、白い肌のお尻はすぐにピンク色に変わり、間もなくして赤く染まっていきました。
伯父は自分の子供が女であっても手加減する様子はなく、膝の上で山なりにピョコンと突き出た柔らかそうなお尻の肉が歪むぐらい、強く平手を振り下ろしていました。
私は心臓をバクバクさせながら興奮してその光景を凝視していました。

従姉は自分の大事なお尻の状態がどうなるかが心配だったのだと思いますが、時々上半身を捻って後ろを向いては、顔を赤らめた半べその険しい表情で自分のお尻の様子を見ようとしていました。
脱がされて太腿で捩れた白いパンティを境界にして、お尻の肌は赤いのに太腿の肌は白いままで、そのコントラストが妙にエロティックに見えました。
従姉は下半身の恥部を見られまいと両方の太腿はしっかり閉じていましたが、時々痛みに耐えられないのか、平手がお尻に振り下ろされた瞬間、下半身がビクッと反応して、太腿の間が“はしたなく”パカッと開いてしまうことがありました。
それは太腿を拘束している白いパンティの腰ゴムが伸び切るほどで、私は従姉がお仕置きされている様子を斜め後ろから見ていたのですが、もし真後ろから見ていたらお尻の割れ目の奥にある肛門や股間にある性器までが見えてしまったかもしれません。

従姉はC学生なので、女らしい身体つきになってきて当然生理もあったわけで、男親に裸のお尻を叩かれるだけでもすごく恥ずかしかったと思います。
おまけに、たとえ私が親戚でも人前で剥き出しのお尻を叩かれる姿を見られ、“自分のお尻が鳴る大きな音”を聞かれるのは顔から火が出るくらい恥ずかしかったはずです。

怪我を負わされた私としては最初はいい気味だとも思いましたが、伯父があまりにもお尻を強く叩くので従姉が可哀想になり、もう少し手加減して欲しいと思ったぐらいでした。
従姉の可愛らしいプリッとしたお尻は伯父の筋肉質な太い腕から平手を振り下ろされるにはあまりに華奢に見えました。
あんなに強く叩くのなら生地の薄いパンティの上から叩かれても同じはずですが、まるで伯父は『お尻の肌を晒して辱めを与えるのも懲らしめのうちだ』と従姉に言い聞かせているかのように見えました。

伯父は若い頃から建設業一筋で働いてきたので体格が良くて力も強く、膝の上でしっかり腰を抱きかかえられた従姉は動けないようでした。
ただ、従姉は決して伯父の膝の上で暴れたり、痛いお尻を手でかばうようなことはせず、声も出さずに黙ってお仕置きを頂戴していましたが、その姿が逆に父親に反抗心をむき出しにしているかのようにも見えました。

伯父が年頃の娘のお尻を叩いて躾けることに何の躊躇も無かったことや、従姉の往生際の良い振舞いからしても、伯父の家庭では普段からお尻を叩く躾け方をするのかもしれないと感じました。
アニメや古い欧米の映画やドラマで、親が躾けのために娘のお尻を叩くシーンを見たことはありますが、まさか自分の近親者の家庭でこんな場面に遭遇するとは思いませんでした。

随分強くお尻を叩かれているのに従姉は声も出さずに行儀よくお仕置きに耐えていましたが、ついに痛さに我慢できなくなったのか、お尻を左右に揺らしながら「痛い、痛い、もうやめて!」と叫んでしまいました。
伯父はそんな従姉の様子を見てお尻を叩くのを止めると、白いパンティが太腿に絡まったままの惨めな姿の従姉を膝から降ろしました。
回数を数えたわけではないですが、お尻は30回ぐらい叩かれたと思います。
色白の肌をしていた左右の尻たぶは真っ赤になっていて、特にお尻の右側は伯父の右手の太い指が強く当たったとわかる赤い跡がしっかり残っていました。
たぶん従姉は私への乱暴な振舞いに後悔はしていたはずです。

【2.従姉が伯父に反抗してしまった様子について】

私の“顔”を殴った罪を“お尻”への平手打ちで償わされた従姉は、居間の床で膝立ちの姿勢になると、両手を後ろに回して伯父に脱がされたパンティを引き上げようとしました。
ところがその時一瞬ですが、下腹部の黒い陰毛が私の視界に飛び込んできて、この瞬間私の体には電気が走るような感覚がありました。
従姉ぐらいの年齢の下半身であれば当然存在する物でしょうが、まさかこんな場面で目にすることになるとは思いませんでした。

ただ、従姉は下腹部に向けられる私の視線に気がついたようで、慌てて膝立ちの姿勢のままクルッと向きを変えて背を向けてしまいました。
それでもデニムのミニスカートの後ろ側だけは腰の上まで捲れたままで、急いで引き上げたパンティはお尻の割れ目に食い込み、お猿のように赤くなった哀れな左右の尻たぶが白いパンティの裾の下からはみ出していました。
従姉はスカートの後ろ側が腰の上まで捲れたままの姿で床にへたり込んで正座すると、恥ずかしそうに顔を赤面させ、半べそでうつむいていました。

そこで伯父は私に乱暴したことを謝るように従姉を叱ったのですが、従姉は伯父の期待に反した振舞いをしてしまいました。
従姉は急に立ち上がると、目に涙をいっぱい溜めながら伯父を睨みつけ「この子の前でお尻出して叩かれたんだからもういいでしょ!」と叫びました。
そして両手を後ろに回してお尻の割れ目に食い込んだパンティの裾を指先で引っ張り、捲れていたスカートの裾を下ろながら、足早に2階にある自分の部屋へ去ってしまいました。
私が従姉の泣き顔を見たのは初めてでしたが、たぶんC学2年にもなって年下の従弟の目の前で裸のお尻をぶたれる恥辱を味わってしまった以上、自尊心を保つためにも早くこの場を去りたかったのだと思います。
でも従姉がこんな態度をしてしまっては、伯父の怒りが収まらないような予感がしました。

伯父も従姉を睨みつけていましたが、今度は思い出したように私の方を見ると私に近づき、口を開けさせて傷の具合を見てくれました。

【3.従姉は2度お仕置きされた様子だったことについて】

私はせっかくの休日に伯父宅を訪れたものの、アクシデントですっかり気まずくなって予定より早く帰宅することにしました。
すると私の気持ちを察してくれた伯父が「我が家の姫(ひめ)のカッコ悪い姿をお見せしてゴメンな、俺はアイツの顔を叩く時の手加減が下手で怪我はさせたくないから、叱る時は尻を叩くことにしてるんだ」と言いました。
その口振りから、伯父はしばしば従姉のお尻を叩いて躾けることがあるのだと思いました。
私が玄関で靴を履いていると伯父は「俺の躾方が悪かったんだよな、尻が赤くなるまで叩いて懲らしめといたから勘弁してくれ、今度娘がお前に会った時にちゃんと謝らせるから」と言うと、お土産に伯母手作りのいなり寿司と巻き寿司を持たせてくれました。
私は唇が切れた痛みはありましたが、強がってそれほど酷い傷ではないことを伝えるとお礼を言って家を出ようとしました。
すると伯父は「姫は俺が尻を叩く時になると“恥ずかしいからパンツは脱がさないで”と喚くけど、パンツを履かせたままだと痣が残るぐらい叩いちゃっても気づかないからな」とブツブツ言っていました。
因みに、伯父は従姉のことを名前で呼ばずに「オイ、姫(ひめ)」と呼ぶことが度々ありました。

ところが玄関を出て伯父の家の裏手にある狭い農道に入ろうとした時でした。
従姉がいるはずの2階の部屋の中から伯父の叱る声が聞こえてきました。
2階の部屋の窓は開いていて中の物音は聞こえるので、私は思わず2階の部屋の真下の位置まで戻って聞き耳を立ててしまいました。

何を言っているかはよく聞き取れませんでしたが、しばらく伯父が一方的に叱る声が続くと、今度は聞き覚えのある『パンッ、パンッ』という音が聞こえてきたのです。
音の正体は従姉のお尻が平手打ちされている音以外には考えられず、どうやら伯父は私が帰ったのを見計らってから、私に素直に謝れずに反抗的だった従姉をもう一度躾け直している様子でした。
少し前に見てしまったようにパンティを太腿の位置まで下げられて、裸にされたお尻を平手打ちされている場面を思い出してしまい、お猿のように赤くなった気の毒なお尻をもう一度叩かれているのだと思いました。
2階の部屋の様子が見えるわけではないので、お仕置きの様子は想像するしかありませんが、伯父の膝の上で叩かれていたのかもしれませんし、もしかしたら畳の床に俯せに押さえつけられて叩かれていたのかもしれません。

そして『パンッ、パンッ、パンッ』とお尻が鳴る恥ずかしい音が何回か聞こえた後に「お父さん、ごめんなさい!」という従姉の泣き叫ぶ大きな声が聞こえ、その叫び声の直後にお尻が鳴る音は止み、2階の部屋は静かになりました。
従姉は父親に少しだけ反抗してみたのでしょうが、結局は厳しいお仕置きに屈服したようでした。
たぶん、C学生の従姉とすれば、私が見ている前でお仕置きされている時は、父親に大きな声で許しを請うような恥ずかしい姿は見せたくなくて、我慢していたのかもしれません。

最初のお仕置きに比べれば、お尻を叩かれた回数は少なかったようでしたが、恥じらいやすい思春期の女の子が2度も下着を脱がされ、裸のお尻を叩かれたとしたら厳しすぎる気もして従姉には同情してしまいました。
ただ伯父にとっては、たとえC学2年でも素行が悪い娘には“お尻から躾ける”古風なポリシーを貫いただけなのかもしれません。

伯父は従姉をお仕置きしている間、私を遠ざけるために部屋を隔てた襖ぐらい閉めてもよさそうでしたが、そんなことはせずに堂々と従姉の恥ずかしい姿を私に見せたわけです。
たぶん、伯父は娘の子供っぽい振る舞いを戒めるために、最大限辱めを与えて懲らしめようとしたのかもしれません。

伯父は粗野なところがありましたが、そうだからと言ってお酒を飲んで暴れては家族に迷惑をかけるようなタイプでは決してありません。
私は豪傑で面白い人物だった伯父のことが好きでしたが、それでも娘のことでこんなに厳しい躾をする人とは思いませんでした。

そういうわけで、伯父のしたことは今の風潮であれば叩くことは“虐待”でしょうし、年頃の娘のパンティを下ろしたら“性的虐待”と言われるかもしれません。
でも、これは30年以上前の話で、家庭での躾の手段で良くも悪くも今より寛容だった当時とすれば、純粋に“愛の鞭”だったと思っています。
ただ、そうは言っても当時の私とすれば、C学2年生にもなって体も大きくなった従姉が、男親である伯父から下着を脱がされ、裸のお尻を叩かれるお仕置きを見せられて驚いたことは事実です。

断っておきますが、普段の伯父の家庭では決して父娘関係が悪いわけではなく、お互い陽気に冗談を交えて会話するぐらい2人の仲は良かったです。
因みに従姉は学校での成績は中程度だったと思いますが、大人相手に気の利いたジョークを言って笑わせてくれる不思議なセンス(天然ボケという意味ではなくて)の持ち主で、私が従姉を魅力に感じていた点でした。
私もそのジョークに影響を受けて、友人相手に同じネタを使ったりしましたが、実は伯父の家によく通った理由も従姉や伯父と会話を楽しむのが目的だったようなものです。

それにしても大人に見えて頼りがいのある姉のような存在だった従姉が、最後にはお尻を叩かれる痛みに耐えかね、まるで幼稚園児のように「お父さん、ごめんなさい!」と泣き叫んでしまったことを“密かに”知ってしまったわけです。
私は顔を殴られて腹が立っているはずなのに、従姉が自分より年下の妹のような愛おしい存在に思えて慰めてやりたい気分になりました。

私は2階の部屋が静かになったのを確かめるとその場を立ち去りました。

【4.私が帰宅してからのことについて】

私が帰宅すると伯父から父(伯父の弟)へお詫びの電話があったことを知りました。
父は笑いながら私に「(従姉の)**ちゃんに殴られたんだって?、でもお前は殴り返したりしなかったってな、そりゃ腹が立っても男が女の子を殴っちゃいけないもんな」と言われ、なにやら父の見解は伯父が従姉にしたことに対する皮肉にも聞こえました。
私とすれば『笑い事じゃない』と思いながら、父に唇の傷の状態を見てもらって綿棒で薬を塗ってもらいました。
すると今度は母から「伯父さんは**ちゃんを随分叱ったらしいわね?」と聞かれましたが、私は固まってしまって何も返答できませんでした。

なぜなら、私はS学生なりにも『見てはいけない年上の女の子の裸の下半身を見てしまった』という認識はあったので、別に自分から覗きに行ったわけではないはずなのに罪悪感だけはありました。
しかも、従姉がS学生ならともかく、C学2年生で陰毛が生えているぐらい成長した体なのに、私が見ている前で下着を脱がしてお尻を叩く躾方は普通の家庭ではないかのような違和感を感じていたので、自分が目にした光景を安易に話す気分にはなれませんでした。
ただ、両親の表情を見ただけでは、伯父が従姉のお尻を叩いて懲らしめたことまで電話で伝えたかを察することはできませんでした。
当時の私の心境としては『もし両親が伯父が従姉の年齢に相応しくない体罰を与えたことを聞いていたとしたら私に何を言い出すのか?』が気がかりだったことを覚えています。

ところがそんなことより、私の下半身の分身は罪悪感など全く感じていないようで“緊急事態”でした。
私は自分の部屋に籠もってベッドに横になると、従姉のプリッとした可愛いお尻をピッタリと覆っていた白いパンティが、伯父の指先であっという間に降ろされ、白い肌のお尻が晒された光景がありありと目に投影されていました。
早速、硬くなってブリーフを突き上げていた陰茎を手指で弄んでしまいましたが、すごく興奮していたのでティッシュの中に射精するのにそれほど長い時間はかかりませんでした。

その日は何度も従姉がお仕置きを受けている姿を思い出しては勃起してしまい、入浴中の湯船の中ですらそれが起こってしまいました。
その日の夜はベッドの中で俯せになり、伯父の膝の上で突き出した桃のような従姉のお尻が『パンッ、パンッ』と痛々しく鳴り響く音と、肌が赤く染まっていく光景を思い出しながら、下半身を敷布団に押し付けて射精してしまいました。
その後も興奮は収まらず、従姉の下腹部に生えていた陰毛を思い出したり、伯父のお仕置きから放免された従姉が恥ずかしい痕跡を隠したい一心で引き上げた白いパンティがお尻の割れ目に食い込んで、赤い肌が隠せなかった光景を思い出したりしました。
そして、実際に見たわけではないですが、2階の部屋でもう一度お尻をぶたれて「お父さん、ごめんなさい!」と“惨めに泣き叫んだ声”を思い出しては、疲れるまで繰り返し自慰行為をしてしまいました。

なぜこんなに興奮したのかうまく説明できませんが、もちろん従姉の俯せの体が『への字』に折れ曲げられ、突き出した裸のお尻がぶたれて赤く染め上げられていく光景はエロティックでした。
でも、それだけが興奮の引き金になったとは思えず、『従姉は恥部に陰毛が生えているぐらい大きくなったのに、まだお尻を叩かれて躾けられていた』という現場を目撃した衝撃も原因かもしれません。
たぶん、いつもの大人びた従姉とはつり合わない「お父さん、ごめんなさい!」と幼稚園児のように泣き叫んでいた“惨めな姿”が興奮を増幅させたのだと思います。
そもそも下半身の着衣をすっかり取り払って裸にされるのとは違い、まるでトイレで排泄する時の姿のようにスカートを捲くられてパンティを太腿まで下げられ、お仕置きに必要なお尻の部分だけを晒される惨めな姿が、こんなに強い性的興奮を覚えるとは思いませんでした。

ところで私が自慰を覚えたのはS学6年になった時ですが、当時の母は私が射精ができるようになったことを部屋のゴミ箱に捨てられたティッシュや、洗濯する際にブリーフの生地に糊付けされたように固くなった汚れを見て気がついていたとは思います。
ただ、従姉がお仕置きを受けている姿を目撃して以来、明らかに自慰の回数が増えてゴミ箱に捨てられるティッシュの量が増えていき、逆に就寝中に夢精する回数は減っていきました。
私は自慰の回数が増えたことを母親に知られたくなかったので、射精をする時は自分の机の引き出しに隠したトイレットペーパーを使うようになり、使用済みの丸めたトイレットペーパーはトイレで排泄する時に一緒に流していました。

あの日以降、学業にも影響が及んで集中力を欠くようになってしまい、少し成績も下がってしまいました。
従姉の赤くなったお尻が“お猿”なら、私の自慰の回数も“お猿”並みでした。

ところで当時の私が自慰をする際に性的興奮を高める対象としていたのは同じクラスで好意を抱いていたH美ちゃんでした。
昭和の時代後期はS学生からC学生の女子のほとんどはスカートの中に濃紺のブルマを履いていたものですが、スカートの中のブルマが見えただけで下着を見たような気分になり、S学生なりにも性的興奮を覚えたものです。
特に体操の時間にピッタリとブルマの生地が下半身にフィットした女子を見てしまった時は、自身の陰茎が充血して固くなることが多かったように思います。
ある日、体育の時間にH美ちゃんがしゃがんでいた時にブルマの股間から白いパンティがはみだしていたことがあり、普段見た記憶が無いH美ちゃんのパンティの一部が見えてしまったことで強い性的興奮を覚えました。
そんなわけで、その日の夜は何度もH美ちゃんのブルマ姿の股間を思い出しながら自慰に励んでしまいました。

そんな時期に性処理の対象がH美ちゃんから従姉に向いた原因になったのが、あの日、従姉が伯父に叱られてお仕置きされていた姿でした。
私がS学6年だった当時、2歳年上の従姉は親戚を含めた身内からしっかり者と見られ、年齢以上に大人に見えていて、私にとって信頼できる姉のような存在でした。
要するに従姉には失礼な言い方ですが、なんとなく従姉に対しては『可愛らしさ』や『色気』のようなものを感じていなかったのです。
基本的には従姉とは仲は良かったのですが、時々従姉は私に向かって偉そうに説教めいたことを言うことがあり、私も度々気分を害した時もありました。
そんな理由もあって、私がS学生で幼いなりにも、なぜか従姉を性処理(当時は自慰ですが)の対象から除外していました。

もちろん従姉もスカートの中に濃紺のブルマを履いていることが多く、スカートが捲れた時にピッタリとしたブルマに包まれたお尻が見えたり、足を開いた時に股間のブルマが見えた時はそれなりにドキッとしたことはありました。
でも、なぜかH美ちゃんを含めた女子の同級生ほど強い性的興奮を覚えたりすることはなく、従姉を『女』としてより同性の友人に近い存在としか見ていなかった気がします。
ところが従姉が伯父に叱られ、剥き出しにされた裸のお尻を叩かれている姿を目にした日から、急激に従姉に『女』を感じてしまい、同時に強い性的興奮を覚えて自慰で性欲を解消する対象へと変わってしまいました。

なぜ従姉を『女』として意識するようになったかというと、従姉が伯父に叱られ、初めて泣いた姿を見たことが原因だった気がします。
私は幼少期から従姉が泣いている姿を見た記憶が無かったので、泣き顔を見て愛おしい存在に思え、見方が変わってしまったような気がします。

もうひとつは従姉が伯父にスカートを捲られた時、なぜかあの日に限ってブルマは履いておらず、白いパンティを見せられてしまったからです。
なぜあの日に限ってブルマを履いていなかったのか理由はわかりませんが、伯父が従姉をお仕置きするためにスカート捲った時、見慣れた濃紺のブルマではなく女子C学生らしい白いパンティが視界に入って『女』を意識してしまった気がします。

ただ、従姉が大人っぽいと言っても履いていた白いパンティは派手な物ではなく、総合スーパーの衣料品売場で売っているような女子学生向けの質素な下着でした。
白状しますが、実は従姉がお仕置きをされた日を境に従姉に対して強い性的欲望を感じるようになり、次回伯父の家を訪ねた時に従姉のパンティを盗もうかと考えたことさえありました。
伯父の家の浴室には脱ぎ捨てられた洗濯前の着衣がカゴに入っていることは当然知っていましたし、従姉とは仲が良かったので2階にある従姉の部屋に何度も入ったことはあり、押入れを物色すれば下着が見つかることはわかっていました。

目的はネット上で投稿されている体験談のように、純粋に性処理の手段として自分の性器を従姉のパンティで包んで自慰行為をするためでもありました。
でも本当の目的は盗んだパンティを身に着け、あの日従姉がお仕置きされていた光景を再現したいと考えたからです。
つまり自分の掌で自分の尻を叩いてイメージを膨らますような行為のことです。
でも私も小心者であったこともあって、もし従姉に下着を盗んだことが知れて、当人との関係や親戚との付き合いに問題が生じることに過剰に恐れていました。
そんな理由から従姉の下着を盗む行為には至りませんでした。

【5.従姉が私に謝罪した日の出来事とお仕置きの本当の理由】

あの日から4ヶ月程度経過し、年が明けた年始に親戚同士で合流して、毎年訪れる神社へ初詣に出かけた時のことです。

従姉と私が2人だけになった時、従姉が恥ずかしそうに「あの時痛かったよね?、叩いてごめんね」と謝られましたが、私は思わず吹き出しそうになったと記憶しています。
なぜなら、私は従姉から顔の“片側の頬”を1回叩かれただけですが、従姉は伯父からお尻の“両側の頬”が赤く腫れるまで何回も叩かれたはずで、その従姉から「痛かったよね?」と聞かれたわけです。

もちろんS学生程度の知恵でも従姉の恥辱の記憶を呼び覚ますような「そっちこそ痛くなかった?」などと聞き返してはいけない場面であることは理解していました。
私は無難に「大したことはないよ、大丈夫だよ」とだけ答えておくと、従姉は安心したように微笑みました。
あの時の私は従姉に素直に謝ってもらえたことがすごく嬉しかったと同時に、自分がちゃんとレディに対する気配りができたことを誇らしく思ったことをよく覚えています。
従姉は他に何か言いたい仕草を見せましたが、混雑していた神社が空いてきたので、私に背を向けると今から参拝しようとしていた自分の両親の元へ行ってしまいました。

私は両手を合わせて参拝する従姉の後姿を見ていました。
「今年こそ良い娘になるので、お父さんにパンツを下げられてお尻を叩かれませんように」とでも祈ったのかもしれません。
私は従姉の後姿の下半身を凝視してしまったのですが、その日の従姉は下半身にピッタリとフィットしたジーンズを履いていて、プリッとした可愛らしいお尻の輪郭がはっきりとわかり、あの日従姉がお仕置きされていた光景がありありと蘇りました。
さらにジーンズのファスナーの一番奥には、あの日に偶然見てしまった陰毛があるかと思うと胸が高鳴りました。
私も神聖な神社で両手を合わせ、頭を下げたつもりでしたが、股間の物を下げさせるのは無理でした。

参拝を終えた後、皆で隣町にある父方の祖父母の自宅へ年始の挨拶へ行きました。
皆でくつろいでいると伯母(従姉の母)が私の近くに寄ってきて、「ちょっとこっちに来てくれない?」と言われ、皆がいる場所から少し離れた隣の部屋の隅へ呼ばれました。

伯母は綺麗で上品な方でしたが、なぜ粗野で野暮ったい伯父と一緒になったのか不思議ではありました。
ありきたりな例えですが“美女と野獣のような2人”と表現すればイメージできると思います。

あの日の伯母は従姉の5歳下の妹(従妹)と一緒に外出していたのであの時のアクシデントを知らず、帰宅したら既に私は帰ってしまっていたという状況でした。
なんとなく起きそうなことは予想していましたが、その伯母が「怪我大丈夫?、娘が酷いことしてごめんなさいね」と言って、私の手を握って手の平を開かせるとお年玉の袋を渡され、あの日の経緯を話し出しました。
従姉はあの日の前日に伯母に乱暴で反抗的な口の利き方をしたらしく、そのことを伯父から長々とお説教されて機嫌が悪かったそうで、翌日そのことが原因で私につい当たってしまったようです。
どうやら従姉の反抗期の振舞いだったらしく、C学生になってから時々感情の起伏が激しくなる時があって伯母も手を焼いていたそうです。
伯父も娘の反抗期の振舞いを大目に見て我慢はしていたそうですが、私への八つ当たりに見えた上に、女の子らしくない過激な暴力が許せなくなり、従姉を懲らしめるためにお尻を叩いてしまったそうです。
私に怪我を負わせたわけですから伯父の処置は当然だったにせよ、あの日従姉が2度も厳しくお仕置きをされた本当の理由は両親への反抗的な態度だったわけです。

あの日を除けば、従姉が私や私の家族に対してそんな酷い態度を見せたことは一度も無かったので、ちょっと意外に思いました。
私もC学生になってから反抗期の意味を理解しましたが、当時S学生の私には意味がよくわかっていませんでした。

あの日は伯母が帰宅すると、従姉は伯父の厳しいお仕置きに懲りたらしく、メソメソしながら前日の悪い態度を伯母に謝ったそうです。
ところが伯母が外出中に起きたことを従姉から聞き出すと「お父さんにお仕置きされてるところを**君に見られちゃってすごく恥ずかしかった」と聞いて驚いたそうです。
流石に伯母も「親戚であろうと人前で娘を叩くのは絶対にやめて!」と伯父に訴えたとのことでした。
伯母は親戚とはいえS学生であっても男である私に、娘の裸の下半身を見せた影響を気にしていたのは明らかでした。

そして伯母は「実は伯母さんの家ではね・・・」と語り始めました。
伯母によると2人の娘を叱る時は自分が叩くようなことはあまりせず、たとえ女の子でもお仕置きはいつも伯父の役割だったそうです。
私にはなんとなく伯父の役割が間違っているような気もしましたが、とにかく姉妹2人を躾ける親の分担はそのようでした。

伯母は娘達が幼少の頃から口にきき方が悪かったり言いつけを守らない時は「今日はお父さんにお尻を叩いてもらうからね、覚悟しなさい」と宣告するだけとのことでした。
つまり姉妹は刑を宣告されると、父親の膝の上の“処刑台”でパンツを降ろされ、“お尻叩きの刑”が執行される決まりなのだと思います。
私には伯母の話がにわかに信じられませんでしたが、頻繁ではないにせよ、姉妹2人は年に何回かは伯父にお尻をぶたれる躾をされることがあったらしいです。
道理であの日伯父から「尻出せ!」と命じられて、従姉が逃げ出したり暴れたりもせず、素直にお仕置きを受けられたわけです。

ただ、従姉はC学生になった時に「お尻を叩くお仕置きは恥ずかしいからもうやめて!」と伯母には訴えていたそうで、実際にC学生になってからはあの日を除けば叩かれたことは無かったそうです。
もしかするとあの日に限って、あえて伯父は従姉の子供っぽい振舞いを戒めるのに相応しい体罰を“特別に与えた”だけなのかもしれません。

でも私から見て姉妹2人はいわゆる“良い子”で、普段から叱られて叩かれるようなことはしないと思っていました。
逆に言えば躾けが厳しかったからこそ、そういう振舞いができていたのかもしれませんが、私はS学4年まで伯父の家の近所に住んでいて頻繁に出入りしてきたはずなのに、姉妹がお仕置きされている場面に遭遇したことは一度もありませんでした。

伯母は私に笑いながら「伯母さんの役割は沢山叩かれて反省したあの子達のお尻を手の平で擦って慰めるのが役割なのよ」と言っていました。
つまり同じ“手の平ツール”でも“伯父はハード”に“伯母はソフト”にと使い分けされていたようです。

伯母の言葉通りあの日も従姉のお尻を手の平で擦ってあげたかどうかはわかりませんが、私は従姉に殴られた時は憤慨したものの、もし性的欲望を脇に置けるのなら、私が代わりにお尻を擦って慰めてやりたかったです。
でも、これは従姉がお仕置きされている姿を思い出しながら自慰をしている自分とは矛盾した欲求なので奇妙な感覚ではありました。

少し離れた場所で祖父母と談笑していた従姉は、伯母が私に余計なことまで話していないか気になっている様子で、時々隣の部屋にいる私達2人の方をチラチラ見ていました。
従姉には申し訳ないですが、伯母から“余計なこと”までしっかり聞かされてしまいました。
従姉とすれば、つい最近までお尻を出して躾けられていたことは知られたくなかったはずです。

そして伯母から「**ちゃん、お願いなんだけど娘が可哀想だから、学校で“親戚の子はC学生なのにお尻出して叩かれてた”とか噂しないように約束してくれる?」と言われました。
何ヶ月も時間が経過してから頼まれるのは遅すぎる気もしましたが、当時はまだ社会に携帯電話が普及しておらず、直接言いにくいことをメールで伝えられる時代でもなかったので仕方ないことかもしれません。
たぶん従姉が恥ずかしくて言いにくかったことを伯母に言ってもらったのだと思いますが、当時の私の同級生には従姉の友人になる兄や姉もいたので噂になることを心配するのは無理もないと思いました。
もし私があの日のことを噂しようものなら、『えっ!、C学生なのにまだお尻叩かれてるの?』とか『パンツ脱がされて叩かれたんだって?』とか『何発ぐらい叩かれたの?』などと心無いことを言われて、従姉が傷つくのは容易に想像できました。
でも私はこのことを誰にも口外していなかったので、「誰にも言っていませんから大丈夫ですよ」と伯母に答えました。

さらに伯母は小声で「娘がお尻を叩かれたことあなたのお父さんとお母さんに言ったの?」と少し動揺した様子で聞かれました。
もちろん私は首を横に振って「親にも言っていませんよ」と答えましたが、結局この時になって伯父は従姉を叩いたことまで私の両親には話していないのだと確信しました。
すると伯母は微笑みながら「ありがとう、**ちゃんは紳士ね、娘が聞いたら安心するわ、なら、お父さんとお母さんにも内緒にしておいてね」と頼まれました。

私はS学生なりにも伯母の動揺を察したので、両親にあの日の出来事を全て話さなくて良かったと思いました。
ただ、私の父に限っては伯父とは兄弟なのでお互いに子供のことを話題にしないはずがありません。
父は伯父と違って口数の少ない穏やかな性格でしたので、もしかしたら伯父から電話であの日の詳細を知らされていても、私と母には黙っていたのかもしれません。

結局伯母としては、従姉が乱暴した理由を話す必要があった私にだけは、勢い余って自分の家庭の躾けのことまで話してしまったのだと思います。
もし他に理由があるとすれば、反抗的だった娘を戒める意図で、わざと“従姉が恥ずかしがりそうな秘密”を私に明かしたのかもしれません。

実は私がK校生ぐらいになってから、伯母の気持ちがわかった気がしたのですが、伯母は自分の子供の躾方をたとえ親戚であっても知られることに抵抗があったのかもしれません。
なにしろC学生になってもお尻を叩かれて躾けられているのは従姉が大人扱いをされていないようなもので、私の母が知ったら驚いたと思います。
私の母は従姉のことを「礼儀正しくて素直で気が利く大人びた娘さんだこと」と褒めてきただけに、そのギャップの埋め方には戸惑ったはずです。
一方で母は伯父のことを「個性の強い人だわ」と評していて、伯父のことを嫌っていたわけではありませんが苦手意識はあったようです。
伯母もそのことは認識していたようで、“私が見ている前で”伯父がC学生の娘の下着を脱がしてお尻を叩いていたことを知られた時の、周囲の悪い反応を心配していたのだと思います。
私が住んでいた場所は、地方の田舎ならではの地縁型コミュニティが強い地域で、噂が歪曲されて拡散することがあったのは事実です。

伯母との話しが終わったのでこっそりお年玉の袋を開けてみると、S学生に渡すにしては多めの紙幣が入っていたので、私はそのことを母に伝えました。
すると母は驚いた様子で財布を取り出すと、従姉にすぐにでも渡すはずだったお年玉袋を開け直し、紙幣を追加で押し込んでいました。

母が従姉にお年玉の袋を渡そうとしたところ、座敷にいた従姉は母の前で正座をすると、あの日の私への乱暴を詫びているのかペコペコ頭を下げていました。
従姉は剥き出しのお尻をお仕置きされた格好の悪い姿を見られた私の存在を意識してしまったのか、恥ずかしそうに顔を赤面させて詫びていました。
たぶん従姉はC学生にもなってお尻を叩かれて躾けられたことを、私の家族に知られていると思い込んでいたに違いありません。
実は伯母も私に「今日は上の娘は恥ずかしがって親戚と会うのを嫌がっていた」と言っていました。
でも後で従姉があの日に受けた辱めについて、私が誰にも口外していなかったことを知れば、きっと安心するに違いないとは思っていました。

実は母はあの日は単なる子供同士の喧嘩が招いた事故だと割り切っているようで、私の怪我のこともあまり心配してくれませんでした。
おまけに母から「アンタが(従姉の)**ちゃんの嫌がるようなことしたから殴られたんじゃないの?」とまるで“性犯罪者”の如く悪者扱いをされていたので私自身は落ち込んでいました。
母は従姉を幼少の頃から気に入り可愛がってきたので、自分の息子である私より従姉の方が可愛いのではないかとやきもちを妬いたことはよくありました。
母は従姉に「どうせウチの子が変なことしたんでしょ?」と言うと、従姉はゆっくり首を横に振って否定しているようでした。

従姉はお年玉を受け取ってよいものか、モジモジしながら伯母の方を向いて伺いを立てていましたが、伯母もあの日のお詫びを私の母に伝えると受け取る許しが出たようでした。
なにやら私には伯母からもらったお年玉が“慰謝料兼口止め料”で、母が従姉に渡したお年玉は“お仕置きシーンの鑑賞料”に思えてしまいました。

祖父母の家での従姉は、神社で私に謝ってくれた時の態度から一変して、よそよそしい態度をされた記憶があります。
例年のように従姉の方から私に話しかけてくるような雰囲気にはならず、祖父母や私の母と接している時間が長くて、明らかに私を避けているようでした。
幼少の頃から私と従姉の仲が良かったことを知っていたS学3年の従姉の妹から「どうしてお姉ちゃんとお話しないの?」と言われた時はドキッとしました。
伯母が私に“余計なこと”まで話したことを察した従姉が機嫌を損ねたのは間違いなく、あの日、私を殴った心境と同様の“不満の意思表明”を示したのだと思います。
たぶん『自分は父親と母親の両方から年下の従弟の前で恥をかかされた』と感じたのでしょうが、それでも、不満の気持ちを私に向かって示すのは筋違いな気がしました。

皆で祖父母の家で昼食を食べで帰宅することになったのですが、多少お酒が入って上機嫌な伯父が従姉に「オイ、姫、**君にちゃんと謝ったのか?」と聞きました。
従姉は首を縦に振って「うん、叔父さんと叔母さんにも」と言うと、伯父は「よし」と言ってあの日従姉のお尻を叩いた無骨な右の手の平で従姉の頭をグリグリと撫でました。
すると伯父は私に「あの日お前が帰った後、コイツをもう一度躾け直して反省させたから許してやってくれ」と言い、それを聞いた従姉は驚いてハッとした表情をしてから顔を赤面させると、不機嫌そうに口先を尖らせ、うつむいてしまいました。
その光景を見ていた伯母は、伯父の方を見ながら「また余計なことを言わなくてもいいのに」と言いたそうな渋い表情をしていました。
もちろん私はあの日の躾直しの様子は見てはいないわけですが、帰宅しようとした時の2階の部屋の様子から従姉が何をされたかは知っていましたし、伯母からの話でお仕置きの本当の理由は親への反抗的な態度だったことも知っていました。

幾度となく従姉から赤面した恥ずかしそうな表情を見せられて、私がK校生ぐらいになってから描いた妄想がありました。
それは伯母は娘2人に“羞恥心”を躾の道具にするために、あえて男親の伯父にお尻を叩くお仕置きをさせていたと考えてしまったことです。
伯母は伯父に対して「人前で娘を叩くのは絶対にやめて」と言ったかもしれませんが、『あの日は伯父までがあえて従姉に“羞恥心”を抱かせるために、私の目の前でお尻と陰毛を見せるような躾方をしたのかもしれない』と想像してしまいました。
私は『もしかして伯父は従姉に反省を促すための道具として自分を利用したのかも?』という考えまで巡らせてしまいました。

【6.私のC学生時代】

実はあの日以降、従姉はショックで不登校になったりはしないかと心配しましたが、年始に会った時の様子を見た限り、そんなことにはならなかったわけで、とりあえず安心しました。
私は翌年C学生になりましたが、居住地域が違うこともあって、そのタイミングで従姉とは違うC学校に入学しました。
従姉とすれば恥ずかしい姿を見られた相手と校内で会わずに済んだわけで、それだけでも心理的負担が減ったのかもしれません。

当人にすれば、私に性器と肛門を“診察”されたわけではないにせよ、普段はブルマで隠していたはずのパンティのデザインや色を知られてしまった上に、丸裸のお尻と陰毛まで見せてしまったわけです。
それ以上に、小さな子供じゃあるまいし、父親からお尻が赤く腫れるまで平手打ちされる屈辱的な姿を年下の従弟に見られて傷心を抱くのは当然です。

従姉がC学3年になってK校の受験も控えていたこともあり、私はしばらく従姉と会わないようにしました。
でも年始に会った時、再び不機嫌になった従姉の態度が気がかりだったので、受験勉強の邪魔にならない程度に時々電話をしては、関心がありそうな話題で話しかけて様子を伺うようにしました。
私は従姉に対して恋愛感情のようなものはありませんでしたが、信頼できる姉や友人のような存在だったので、気まずい関係のままにしておきたくなかったからです。
それでも電話での会話はぎこちなく、私の話に無愛想な相槌をされたり、「今忙しいから」と言って電話を切られたりする時もありました。

従姉がK校受験に合格し、久しぶりに伯父の家を訪れた時は、別にお祝いの意味はなかったのですが、従姉が当時好きだったロッテの“雪見だいふく”と“コアラのマーチ”を差し入れて機嫌を取ったりもしました。
お菓子で機嫌を取るとは笑われそうな話ですが、たぶん従姉から“よそよそしい態度”をされるのが耐えられなかったので、必死だったのだと思います。
ただ、伯母は私がどうしてそんな振舞いをするのか心情は察してもらえたようなので、「**ちゃんは優しいのね、ありがとう」と礼を言ってもらえただけでも救いでした。
そんな気遣いの甲斐があったかどうかはわかりませんが、何とか従姉と以前のような間柄まで修復することができたので、とりあえず安堵しました。
もしかすると私のために伯母は、「もうあの日のことは忘れなさい」とか「余計なことまで**君に話しちゃって悪かったね」とでも言って、従姉を諭してくれたのかもしれません。

でも、事の発端は従姉が不機嫌になり勝手に怒り出して私を殴ったことであり、従姉のパンティを脱がして辱めを与えたのは伯父であって私ではありません。
従姉が知られたくなかった家庭の躾の話は、私が聞き出したわけではなくて、伯母の方から口にしたはずです。
不満の態度を私に向けるのは筋違いな気がして、『どうして私が“我儘姫”の機嫌を取らなければならないのか?』と自分の矛盾した行動に自問したりはしました。

繰り返しになりますが、私はあの日以来、女の子がお尻を叩かれる場面に性的興奮を覚えるようになってしまいました。
私は小説やコミックでそんな描写を見つけたり、テレビのドラマやアニメでそんなシーンに目にすると興奮を覚えました。

私が従姉に機嫌を取ってまでした表向きの態度とは裏腹に、C学生になっても自慰行為をするときは、従姉がお仕置きされていた姿を思い出してすることが頻繁にあったことは事実です。
当時C学2年だった従姉にしてみれば、人前で裸のお尻を叩かれたことは酷い屈辱感を味わったはずで、同情するべきだと理解していても自分の自慰行為の妄想から排除することができませんでした。
従姉に対してだけでなく、伯母に対しても、手塩にかけて育てた娘の下半身を性処理の道具に使わせてもらったわけですから、後ろめたく思いました。

いつも最初に思い出す光景は、伯父が従姉のお尻を罰する準備をするために、手際よく膝の上に抱えてスカートを捲り、清楚な白いパンティをあっという間に太腿まで脱がしてしまう場面でした。
そして、叩かれる時の『パンッ、パンッ』とリズミカルに鳴る音とともに、お尻の肌が徐々に赤く染まっていく光景や、惨めに「お父さん、ごめんなさい!」と泣き叫んだ声を思い出しては、手指で性器を弄んで射精していました。

私はそんな性癖をノーマルとは思えず悩んだことがあり、“悪趣味”と言ってもいいですが、C学生らしくわかりやすい二文字で言い表すなら“変態”だと思っていました。
当時はまだインターネットも無く、他人には相談しにくい“特殊な”性的悩みを解決する手がかりすら、見つけにくい時代でもありました。

唯一、私がノーマルな自慰だと思えたのは、同級生の女子生徒のスカートの下に履いていた下着を偶然見てしまい、それを材料にした時でした。
ただ、こういう経験であれば、ここの投稿サイトでもよく見つけられる話だと思いますが、私の場合は少し違った視点がありました。

実は当時私が通っていたC学校の女子生徒は、スカートの下にブルマを履いていることが多くて下着を見る機会はなかったのです。
つまり、従姉がお仕置きされた時に伯父にスカートを捲られて見えてしまった白いパンティは、私なりにインパクトがあったということです。
そういうわけで、当時の私とすれば『女子C学生ならブルマの下には従姉のような白いパンティを履いていることが多いのかな?』という想像の基準をあの日に与えられたようなものです。

ところでC学生の時に一度だけでしたが、就寝中に悪い夢を見たことがありました。
夢の中で従姉はお仕置きをされたようで、太腿には脱がされたピンク色のパンティを絡ませ、赤くなったお尻を出したままの姿で部屋の床にへたり込んでうつむいていました。
夢で見た従姉のパンティはなぜか白色ではなく濃いピンク色でしたが、私は夢の中でその光景を見てズボンの中に手を入れて性器を弄んでいました。
ところが従姉が目に涙を浮かべて私の方を向くと「私がお尻を叩かれているところを見て何してたの?」と言いました。
従姉は私の股間に視線を向けると怒り出し「どうしてそこを手で触る必要があるの?、警察に言うからね!」と言われて私は眠りから覚めました。

不思議なもので夢の中であれば、筋の通らない極端な話でも疑いを持たずに信じてしまうことがあります。
夢の中であれば“警察に言う”と脅されただけで現実だと思い込み、強いストレスを感じてしまうものです。
でも夢ではない場面で冷静に考えれば、従姉の目の前で自慰をするはずはありません(絶対とは言いませんが)。
そもそもこの場面で唐突に“警察に言う”とは夢ならではの展開で滑稽ですが、こんな夢を見てしまったのは自分の性癖に罪悪感を感じていたからかもしれません。

【7.従姉のK校時代の様子】

あの日の出来事から2年経過し、元々大人びた印象だった従姉でしたが、K校生になると急に色っぽく綺麗になり、振舞いまで慎み深くなって少し驚きました。
私は『お尻を叩かれると良質なホルモンでも分泌されるのかも?』と思ったりしました。
おまけに『もしかしてお仕置きされているところを私に見られた“羞恥心”が改心を促したのかも?』とまるで自分が従姉の反抗期を終わらせたかのような、勝手な解釈までしてしまいました。
両親の“手の平”と娘の“お尻”のスキンシップがもたらした躾けの成果かもしれません。

従姉はなんとなく母親である伯母と仕草が似てきたことにも気が付きました。
校内では従姉以上の容姿の女子生徒はいたでしょうが、それでも一部の男子生徒から気を引くぐらいの存在にはなっていたと思います。
ただ、従姉はS学生の頃から可愛らしいというよりも、見た目の印象から実際の年齢より上に見られるタイプで、多少近寄りがたい雰囲気はあり、可愛らしさなら従姉の妹の方が当てはまったような気がします。
お尻をぶたれて幼稚園児のように「お父さん、ごめんなさい!」と泣き叫んでいた姿と大人びた雰囲気があった姿の従姉のイメージはどうしてもつり合わず、随分ギャップを感じていました。

従姉は身体つきが少しふっくらしてきて、C学生の時のように両足の肌を露出するような短いスカートを履いたり、体のラインがわかるような服装を避けるようになっていました。
胸はそれほど大きいわけではありませんでしたが、それでも手で覆ったぐらいでは乳房全体を隠せない程度の大きさになっていることは着衣の上から見てもわかりました。
流石に伯父もK校生になって成熟した従姉のお尻を裸にして叩く躾けはしないだろうと思っていました。
なぜなら、伯父の膝の上に乗せられてあの乳房が膝に触れてしまうことを考えたら、お仕置きはあり得ないと思っていましたし、そもそも伯母もあの日の出来事に懲りて、伯父に体罰をさせることはさせないような気がしていました。

もしあの伯父がK校生の従姉を叱ったりしようものなら、瞳に一杯涙を浮かべて「お父さん、また私のお尻を叩くつもり?」と言って悲しそうな表情で伯父を見つめてしまうような気がしました。
たぶんあの伯父でさえも「わかったよ、もう叩いたりしないから」と思わず言ってしまうかもしれず、色っぽく綺麗になったK校生の従姉からはそんなオーラが放たれていました。
ただ、それでも私の性癖は従姉の成熟した裸体を想像する以上に、パンティを中途半端に太腿の位置まで脱がされて、幼児のように丸出しのお尻を叩かれている“惨めな姿”をもう一度見てみたい願望がありました。

【8.K校3年の従姉のブルマ姿を目撃した日】

従姉と私はC学生の時は別の学校でしたが、私はC学3年の時に従姉と同じK校を選んで受験し合格したので同じK校へ入学することにしました。
9月ぐらいだったと思いますが、ある日のこと、K校1年の私達だけは何か教員のイベントがあった都合で午後は早めに授業が終えられ、K校3年の従姉は通常通りに午後一杯授業があった時だと思います。
私が下校しようとしていたところ、運動場で体育の授業中だったK校3年のクラスを目にしたのですが、女子生徒は全員上は白い体操服で下は濃紺のブルマを履いていました。

するとその女子生徒の集団に従姉を見つけたのですが、思わず従姉の下半身に視線を向けてしまいました。
明らかに4年前に従姉が伯父にお仕置きされた時に見た可愛らしいプリッとしたコンパクトなお尻は、脂肪がついて膨らみを増していて、その成熟ぶりにすごく興奮してしまいました。
骨盤は大きくなり、前から見た下腹部は恥骨の周囲も膨らみ、成人女性の下半身のような色気を醸し出していました。
更にブルマの裾から伸びている色白の肌をした太腿も4年前より脂肪がついて太くなっていて、『もしかして従姉の下半身が成熟したのは伯父に厳しくお尻を叩かれたせい?』と思いたくなりました。

同級生や下級生のブルマ姿を見てもそれなりに興奮は得られましたが、従姉のブルマ姿を見たぐらいでこんなに興奮するとは思いませんでした。
たぶん興奮した理由は、4年前より脂肪がついて大きくなったお尻でしたが、『4年前にあのお尻は伯父から赤く腫れるまで平手打ちされて躾けられていたんだ』という記憶を呼び覚ましたことが興奮を増幅させたのだと思います。
もちろん興奮した理由は、従姉が他の女子生徒の誰よりも下半身にピッタリとフィットしたブルマを履いていたこともあったかもしれません。
従姉が履いていた濃紺のブルマの生地は、まるでスクール水着のように皺ひとつ無く滑らかにお尻に張り付いていて、前かがみの姿勢をとるとブルマの中に履いているパンティの裾のラインがはっきりと浮き出ていました。
時々、ブルマの裾が望まない位置まで持ち上がらないようにお尻の側の裾ゴムの下に指を差し込んで裾を引っ張っていた仕種には興奮しました。
あたかも下半身を窮屈に締めつけている濃紺のブルマは、『実はC学2年の時に父親から躾けのためにここが使われたことがありました』とメッセージを発しているようで、お仕置きを受けた恥ずかしい過去を必死に隠そうとしているかのようにも見えました。

従姉のブルマ姿に反応した私の陰茎はすっかり充血して膨張してしまい、ブリーフの中が窮屈な状態のまま帰宅することになりました。
私は従姉がお仕置きされていた姿を目撃したという特殊な体験をしていただけに、もし自分以外の男子生徒が従姉のブルマ姿を見ても、勃起などしないはずだと思いました。

ところで、私の身長はS学生の頃までは従姉より低かったぐらいですが、C学生になったあたりから身長が伸び始め170センチを超えるぐらいにはなっていました。
ただ、お恥ずかしいことに性器の成長が追いついておらず、陰茎の包皮は指で反転させないと剥けない状態でした。
ところがその日の状況は普段と違っていて、帰宅してからブリーフの中を覗いてみると、陰茎が反り返るぐらい充血して硬く大きくなり、包皮が勝手に後退して亀頭がすっかり露出していました。
たぶん成長した従姉の下半身の成熟ぶりや、お尻に滑らかに張り付いたブルマ姿を見せられて興奮していたからだと思いますが、私の陰茎は“一皮剥けた”という例えがピッタリな状態でした。
包皮が剥けたばかりの亀頭の皮膚は、まだ敏感だったのでブリーフの布地と擦れて痛かったですが、亀頭から漏れ出した精液とは違う透明な粘液が糸を引いてブリーフを濡らしていたことをよく覚えています。
リドリー・スコット監督のSFホラー映画で“エイリアン”という作品がありましたが、エイリアンの頭部は男性性器をモチーフにしたと聞いています。
醜悪な二重顎から強酸の唾液を滴らせ、内側の顎が飛び出すシーンを思い出すと、なんとなくデザイナーの意図を理解できた気がしました。

その日の夜はベッドの中で俯せになり、従姉の下半身をラッピングされたように覆っていたブルマ姿や、4年前より脂肪がついて太くなった白い綺麗な肌の太腿を思い出しながら、敷布団に下半身を摩擦させて射精してしまいました。
ただ包皮が剥けたばかりの亀頭の皮膚は敏感で痛かったので、普段より射精に時間がかかった記憶があります。

K校時代の私が自慰行為をする時は、人並みに雑誌のグラビアや女子生徒の体育の時に見たブルマ姿や短いスカートの中から見えてしまった下着を思い出してすることはありました。
それでも相変わらず従姉が伯父からお仕置きを受けた屈辱的な姿を思い出して自慰行為をすることは頻繁にありました。
従姉には後ろめたいものの、4年前に白いパンティを太腿の位置まで脱がされ、裸にされたお尻が『パンッ、パンッ』と鳴る音とともに赤く染め上げられていく“惨めな姿”は刺激的で、どうしても忘れることはできませんでした。

その日以降は体操服を着たブルマ姿の従姉が伯父からブルマとパンティを脱がされ、「お父さん、ごめんなさい!」と言わされるまでお尻を叩かれている光景を勝手に妄想して自慰をするようになってしまいました。
つまり従姉のイメージをC学2年の時からK校3年の時にすり替えた上で、伯父の膝の上に乗せられた従姉がC学2年の時より成熟して膨らんだお尻を平手でビシビシと叩かれている場面です。

妄想の中で従姉は伯父の膝の上に乗せられ、ピッタリとしたブルマの生地に覆われたお尻を突き出していて、ブルマの布地の表面にはパンティのラインもすっかり浮き出ています。
そして従姉は『お父さん、K校生なんだからお尻を裸にされて叩かれるのは恥ずかしい、お願い、下着は脱がさないで』と哀願します。

しかし哀願も虚しく、結局伯父はブルマとその下に履いている白いパンティの腰ゴムを一緒に両手で掴むと、お尻の上でパンティとブルマの布地を裏返しに捲り、裸のお尻を晒してしまいます。
そして、伯父はあの日と同じように『パンッ、パンッ』と大きな平手打ちの音を部屋中に響かせながら、C学2年の時より成熟して膨らんだお尻を赤く染めあがるまで何度も叩いてしまいます。

従姉は「お父さん、ごめんなさい!」と許しを請うと、ようやく伯父はお尻への懲らしめに満足して、従姉を膝から降ろして放免します。
惨めなお仕置きでやりきれない気持ちでいる従姉ですが、既に成長して恥部に十分生え揃った陰毛とK校生になってもお仕置きをされてしまった恥ずかしいお尻の痕跡を隠そうと、お尻の上で裏返しに捲られた白いパンティとブルマの布地を両手で引き上げ元に戻します。
ところが従姉は体を捻って下半身を鏡に映してみると、下半身を窮屈に覆ったブルマでは赤く染まったお尻の肌がどうしても裾からはみ出してしまい『明日の体育の授業でお尻を見られたら恥ずかしい』とつぶやきながらブルマのお尻の側の裾ゴムの下に指を差し込み、裾を引っ張って隠そうとしている姿があります。

こんな妄想を膨らませては自慰行為を繰り返していましたが、それは裸ではないにしろ、お尻の大きさや形体がはっきりとわかるブルマ姿に、4年前に裸にされて叩かれていたお尻の記憶を重ね合わせていたのは間違いありませんでした。

【9.従姉のつぶやき】

従姉のブルマ姿を目撃してから時間が経過し、年の瀬に入ったある日のことでしたが、従姉と一緒に2人だけで下校した時のことでした。
従姉が歩きながら突然「あの時は叩いてゴメンね、あの頃の私ってちょっと変だったみたいで・・・、そのかわり、お父さんにパンツ下げられて、お尻ぶたれるところを**君に見られて、死ぬほど恥ずかしい目にあったから、あれで勘弁してね」。
「叱られるようなことしたんだから当然だけど、C学生にもなってパンツ下げられてお尻ぶたれる子なんていないよね?、恥ずかしいから誰にも言わないでね」と照れ笑いをしながら言い出したので驚きました。
おまけに私があの日のことを4年間誰にも口外せず、色々気配りしてくれた礼を今頃になって伝えてきました。
従姉は4年前のあの日の出来事をすごく恥ずかしがっていたはずなのに、時間が経過してあの日に起きてしまった現実を冷静に受け止められるようになったのかもしれません。

そして私が今でも忘れられないこんなことを従姉は口にしました。
「誰にも言ってほしくない理由は他にもあって、C学生になっても私のお尻を叩くお父さんを親戚や友達から変な目で見られたくなかったのよ」。
「お父さんは躾に厳しいから怒ると怖いけど、普段は優しいことは**君も知ってるでしょ?、私も妹も叱られてお尻叩かれるのは嫌だったけど、お父さんのことは嫌いじゃないの、だから**君もお父さんのことを変に思わないでね」という内容でした。
C学生にもなって人前であんな恥ずかしい体罰を受けたのに父親を恨んだりせず、庇う姿勢を知って従姉はやっぱり大人だと思いましたが、私も伯父のことが面白い人物で好きでしたので、伯父が周囲から変な目で見られたくない点だけは同感でした。

ところが従姉は、私が同じK校へ入学してお互い距離が近くなったことで、また心配になったのだと思います。
その日以降、従姉と校内で会うと「私がお父さんからパンツ脱がされてお尻ぶたれたこと、誰かに言ったら承知しないからね!」と時々言われました。
それは従姉がK校を卒業するまでの残り3ヶ月間言われ続け、『4年間秘密を守ったはずなのに自分はそんなに口の軽い人間に思われているのか?』と思い、少し悲しかったことを覚えています。

ところで伯父や伯母にも聞きにくかったことですが、私は従姉にどこかのタイミングで「K校生になってもお尻を叩かれることあるの?」と聞いてみたい欲求がありました。
身体も成熟したK校生の従姉が伯父にお尻を叩かれることは流石に無いだろうと思ってはいても、従姉の成熟したお尻に滑らかに張り付いたブルマ姿を見てしまってからはその欲求が抑えられなくなったからです。
もし従姉から「実はまだ叩かれる時があるの」とでも聞いたら、早速その場面を想像して自慰行為の至ってしまったに違いありません。
でも逆に「どうしてそんなこと知りたがるの?、もしかして私がお尻叩かれているところ想像して興奮するの?、変態!」とでも言われるかもしれず、自分の性癖を知られてしまうような気がして、結局そんなことは聞けず終いでした。

話は変わりますが、和英辞典で『お尻を叩く』の英訳を調べて『spank』であることを知ったのは私がK校生の時でした。

【10.私の性癖の正体を認識できた出来事】

私はK校卒業後、地方の実家を離れて関東にある大学に進学し、1人で生活を始めたのですが、ある日、古本屋に立ち寄ったところ『SMクラブ(出版社は日本出版社)』というSM誌を目にし、そこに私と同じ性癖を持つ人のコラムが掲載されていて衝撃を受けました。
自分の性癖の正体を認識できた瞬間でしたが、『spanking』の単語その物がお尻を叩いたり、叩かれたりする性的嗜好を分類する動名詞であり、ムチやロウソクや縄での縛りを伴うSMプレイとは区別されていることを知りました。
どうやら私と同様、子供の時期に身近にいる異性が躾でお尻を叩かれるお仕置きを目にして、この性癖が芽生えた人が比較的多かったようです。

さらに、欧米の親は息子や娘がS学生どころかK校生ぐらいの年齢になってもお尻を叩く躾をする習慣があると知り、お尻を叩く時は平手だけでなくスリッパ、ベルト、ヘアーブラシ、パドル、定規が使われることがあることも知りました。
私は欧米人の子供の方が日本人の子供より成熟して大人の振舞いができるものと思い込んでいたのに、成人するまで小さな子供にするような体罰が習慣だったことを知って意外に思いました。
現在なら、こんな知識はインターネットを検索すれば、まるで常識であるかのような解説を見つけられますが、当時とすればパソコンは販売されていても庶民がインターネットを気軽に使える時代はもう少し先のことでした。
当時の私は『もしかして自分は田舎者だから知らなかっただけで、都会人なら皆知っているのかも?』と思ったりもしました。

【11.“SMスピリッツ”に投稿されていた女性の告白手記について】

私が社会人になってから古本屋で見つけたのですが、『SMスピリッツ(出版社はミリオン出版)』というSM誌の1987年6月号に掲載されていた女性の告白手記は興味深かったです。
なぜなら、この女性はC学生の時まで母親からお尻を叩かれるお仕置きを頻繁にされていたと語っていたからです。
従姉がK校生の時に「C学生にもなってパンツ下げられてお尻ぶたれる子なんていないよね?」と言っていたことを思い出し、私も従姉と同じく、そう思っていましたが『間違っていたかも?』と思った瞬間でした。

投稿者は1987年当時32歳の主婦の方だったそうなので、私の体験談を投稿した時点でのお歳は60代後半ということになります。
手記には東京オリンピックの話題が含まれていたので、1964年~1970年ぐらいまでのSC学生時代の体験を語っていたようです。
生まれはN県のS市とのことで『旧日本海軍の出身者と外人の多い町』と語っていたことから、たぶん長崎県佐世保市のことだと思います。
『私の住んでいた町で子供を叩くと言えばほとんどお尻を叩くことだったのです』と語っていたのですが、体罰を否定する風潮の現在なら別ですが、半世紀前まで長崎県佐世保市在住のご家庭は皆そうだったのでしょうか?。
そんな“長崎県佐世保市固有の風土”をご存知の方はコメント欄にコメントしていただきたいです。

告白手記の一部を引用させてもらうと以下の通りです。

(前略)
『その頃はお仕置きといえばお尻たたきと決まっていました』
『ただ、父の力では強過ぎるので、余程の事がない限りそれは母の役割でした』
『日頃から躾に厳しかった母は、些細なことも見逃さず、私を叱りお尻を叩きました』
『C学生になっても、私はパンツを脱がされ、お尻を叩かれていたのです』
(中略)
『さすがに生理が始まると、お尻を叩かれることが無性に恥ずかしく、耐えられないことになっていたのも事実です』
『しかし、そんなことがお仕置きを逃れる口実には少しもならないのです』
(中略)
『仲の良い友達とは、お仕置きの話をしていました』
『“昨日叩かれちゃった”』
『“そう、それじゃあ授業は辛いね、まだ痛いんでしょ”』
『“少しだけね、知ってる?、A子の家では、もうC学生だからって、パンツ脱がされないんだって”』
『“本当!、いいなぁ、でもあの家、男兄弟が多いからね、脱がすわけには、いかないんじゃない”』
『今、考えると、けっこうキワどい会話をしていたようですが、それでも本人たちの頭の中には、セックスなどという知識は、まだかけらもありませんでした』
『最近の子供より、大分遅れていたと思います』
『いくらセックスの知識がないからと言って、お尻を出すのが日一日と恥ずかしくなっていくのに、変わりはありません』
(中略)
『竹のモノサシで叩かれたこともあるんです』
『椅子に体を据えられて、スカートを捲られ、下穿きをさげられて、剥き出しのお尻を叩くのですからたまりません』
『お尻が焼けるように痛く熱くなるんです』
『手で叩かれるだけなら、必死で我慢もしましたが、こればかりは我慢できません』
『大きな声で叫んでしまうのです』
『父だけならともかく、家にはいつも二、三人の人が働いていましたから、その人たちだけには、声も聞かれたくなかったのです』
『家に出入りするには、どうしても店を通らなくてはならないので、そんなことがあった次の日には、顔を伏せて家に駆け込んだものです』
(中略)
『仲良しのB子は、A子と違って、子供が女ばかりの家庭の長女でした』
『“洋子はいいなぁ、だってひとりっ子なんだもの”』
『“お仕置きだって誰にも見られないんでしょ”』
『“私なんて、お部屋が一緒だからいつも妹たちに見られてしまうのよ”』
『そう言って私のことを羨ましがるのです』
『たとえ姉妹でも、それは辛いことだと思います』
(後略)

【12.“マニア倶楽部”に投稿されていた女性の告白手記(その1)について】

私は『さすがにK校生になった従姉がお尻を叩かれたりしないだろう』と思っていたように、他の家庭でもそうに違いないと思っていました。
ところが、これも古本屋で見つけたのですが、『マニア倶楽部(出版社は三和出版)』という“羞恥”をテーマにしたSM誌の1989年11月号(通巻39号)に投稿されていた手記を見て衝撃を受けました。
なんとK校2年生の時に父親からお尻を叩かれるお仕置きをされた体験をした女性がいたのです。
断っておきますが、決して従姉が投稿したわけではありません。

投稿者は1989年当時23歳のOLの方だったので、私の体験談を投稿した時点でのお歳は50代ということになります。
この女性がK校2年生の時は1983年になるわけですが、私はなぜかその当時の社会がどうだったか知りたくなって調べてみると、“おしん”がブームだったり、任天堂からファミコンが発売されたり、戸塚ヨットスクール事件があった年代でした。

因みに現在“マニア倶楽部”のバックナンバーは古本屋やオークションで探さなくても、三和出版がネット上に開設したデジタル版のサイト(グーグルで“マニア倶楽部デジタル”を検索)があります。
サイト上で会員登録をすれば、月額3,000円(税抜)で公開されている映像と誌面がすべて見放題になるそうですが、“マニア倶楽部”の誌面で『spanking』をテーマにした企画は1986年~1989年が多かった気がします。
告白手記の一部を引用させてもらうと以下の通りです。

<マニア倶楽部/1989年11月号(通巻39号)/三和出版/(告白手記)スパンキングされたいOLの告白・結婚するならお尻をお仕置きしてくれる人がいいな(138ページ~144ページ)>

(前略)
『私は小さい頃、おテンバでよくお行儀の悪いことをする女の子でした』
『母は優しかったのですが、父はとても厳しかったのです』
『すぐに、“床の間”に連れていかれて、膝に乗せられました』
『スカートをまくられ、ショーツを膝まで下ろされました』
『そして、裸のお尻をイヤというほど叩かれたのです』
『弟と私は、“床の間”のことを“お仕置きの部屋”と呼んでいました』
『父が私たちを叱るとき、必ず“お仕置き部屋”でお尻叩きをするのです』
『S学校六年のとき、とても恥ずかしいことがありました』
『ささいなことから、私は弟とけんかをしてしまい、泣かせてしまったのです』
『父はものすごく怒りました』
『私は膝にかかえられ、お尻を何度も叩かれました』
『弟の目の前でお尻を丸出しにされて叩かれるなんて、初めてのことでした』
『その頃はもう、思春期でしたので、自分の恥ずかしい所を弟に見られてしまったということだけで、大変なショックでした』
『私が悪かったのだからしかたがないのですが、それにしてもひどい屈辱感を味わいました』
(中略)
『K校二年生になった暑い夏の日のことでした』
『私はテニス部の二年先輩で、大学生のYさんのマンションに遊びにいきました』
『とても楽しくて時間を忘れるくらいおしゃべりをしてしまいました』
『家には“遅くなるから”と連絡してはいましたが、夜中の十二時まで長居をしてしまったのです』
『Yさんに送ってもらって家に着いたのは、十二時半を過ぎていました』
『彼はいっしょに謝ってくれると言ってくれましたが、私はだいじょうぶと答えてひとりで玄関に向かいました』
『当然父が玄関に立っていました』
『今まで見たことがないような、ものすごい恐い顔をしていました』
『“まだK校生のくせに、こんな時間まで何してたんだ!!”身がすくんでしまいそうなくらい大きな声でした』
『そして、厳しく問いつめられ、とうとう私はYさんのマンションに遊びにいったことを話してしまいました』
(中略)
『“ちょっと、こっちへ来なさい”』
『父は怒りを押し殺したような口調でそう言うと、私に背中を向けて廊下を歩いていきました』
『私は、(まさか?・・・)と、思いながら父についていったのです』
『“お仕置き部屋”という子供の頃の恐い記憶がよみがえってきました』
『それでも私は、精一杯平静を装って父の後ろ姿を睨みつけていました』
『父はやはり私を、“床の間”へ連れていきました』
『私は、段々不安な気持ちになっていきました』
『そして、体じゅうが緊張してしまったのです』
『部屋に入るなり、父は正座し、無言で自分の膝を指さしました』
『“お仕置き”という意味です』
『強がっていた私も、父の厳しい顔に、すっかり観念してしまったのです』
『目には涙があふれてしまいました』
『私は、もうそれ以上とても抵抗する勇気はありませんでした』
『そして、ついさっきまでは、“まさか”という気持ちだったのが、なぜか、“ああ、やっぱり”という気持ちに変わってきたのです』
『父は私のスカートをまくりあげ、パンティも膝までさげました』
『K校生の私にとって、この瞬間は最高に恥ずかしくて屈辱的だったのです』
『父は右手を私のお尻に力一杯打ちすえました』
(後略)

【13.“マニア倶楽部”に投稿されていた女性の告白手記(その2)について】

K校生にもなってお尻を叩かれるお仕置きをされるケースは珍しいと思っていたら、“マニア倶楽部”1988年5月号(通巻21号)に同居する明治生まれの祖父からお仕置きをされた体験を語った女性がいました。
投稿者は1988年当時24歳の女性だったので、私の体験談を投稿した時点でのお歳は50代ということになります。
最後にお仕置きをされたのはK校3年の時だったそうなので、1982年ということになります。
祖父が『おいどを叩いてやる』と言っていたようですが、“お尻”のことを“おいど”と言うあたりから、京都の方なのかもしれません。
告白手記の一部を引用させてもらうと以下の通りです。

<マニア倶楽部/1988年5月号(通巻21号)/三和出版/(告白手記)美雪は、十八歳までお尻を叩かれて折檻されてました・明治生まれの祖父の厳しいお仕置き(120ページ~123ページ)>

(前略)
『私は旧家のひとりっ娘として生まれ、家族は両親と祖父母の五人暮らしでした』
『家庭の躾はとても厳しく、特に明治生まれの祖父は、“女の子は三日に一度叩かないと、品のいい娘に育たん”が口癖で、現代ではとても理解できない、古くさい考え方をしていました』
『私もかなりのお転婆でしたが、少しでもおいたをすると、祖父の膝の上にうつぶせにされて、むき出しの小さなお尻がまっ赤になるまでぶたれたものでした』
『祖父の掌は、カサカサしていてとっても痛かったのです』
『たいていの場合は掌で打たれましたが、祖父はお仕置き用に手作りの尻たたき棒を持っていました』
『それはめったに使われたことはありませんでしたが、部屋の壁に吊るしたこの木片には、どれだけ怯えたことかわかりません』
(中略)
『自分でこんなこと言うのも生意気かも知れませんが、K校の頃には、自分の容姿にかなり自信を持つようになっていました』
『女子高に通っていたのですが、クラスメートを通じて他校の男子生徒から手紙をもらったり、デートを申し込まれたりということも何度もあったのです』
『こう書くと、ずいぶん明るいK校生活を送っていたように思われるかも知れません』
『でも、当時の私は他人にはとても恥ずかしくて知られたくない、憂うつな体験をしていたのです』
『それは祖父の厳しい躾でした』
『その頃、祖父はとっくに仕事をやめていて、体も老弱していましたが、依然として頑固者で石頭で、とってもいばっていました』
『ですから私が年頃になって、すっかり大人気取りだったにもかかわらず、既に七十を過ぎたこの老人は、いまだに私を小さな子供ぐらいにしか見ていなかったのです』
『そんなわけで、少しでも悪いことが見つかると、そのつどお仕置きをされていました』
『とても信じられない話かも知れませんが、十七、八という年齢になっても小さい時と同じやり方で、手厳しく罰せられたのです』
『お仕置きだなんて、子供の時ならまだ眼をつぶることもできますが、年頃になってからでは苦痛よりむしろ、恥ずかしさの方が大きかったのです』
『でも、がんこジジイはそんなことは一向におかまいなく、私をいつまでも子供扱いするのでした』
(中略)
『その日は私の十八歳の誕生日でした』
『家族から祝福されるはずの日を私はすっかり忘れてしまい、ボーイフレンドと夜遅くまで映画を見ていたのです』
『その頃、祖父が肺炎をわずらって、入院中であったのをいいことに多少ハメをはずしても大丈夫と油断しきっていたのが災いのもとでした』
『帰宅したのは十一時を過ぎていたように思います』
『母のお目玉を予想していた私は玄関のドアをおそるおそる開けました』
『すると顔と顔がぶつからんばかりに突っ立っていたのは何と、祖父だったのです』
『私はあまりの驚きに立っているのもやっとでした』
『待ちくたびれた両親は怒って眠ってしまっていましたがこの日に退院した祖父は、久しぶりにお仕置きをする絶好の口実とばかり、私の帰宅を待ち受けていたのです』
『私は、この日に祖父が退院するなんて、全然知りませんでした』
『“お前、こんな遅くまで何をしていた、今日という今日は許さん、うんとおいどを叩いてやる来なさい”』
『私は耳を引っ張られて、祖父の部屋に連れて行かれました』
(中略)
『そんなわけで、いつものように祖父の膝の上にうつぶせになると、スカートをまくられて、パンティもおろされてしまいました』
『お仕置きのときには、すっかりお尻を裸にされるのが決まりだったのです』
『それは、既に成長した体をしていた私にとっては、あまりにも恥ずかしく浅ましい姿でした』
『こんな恰好は小さな子供を折檻するときにだけ許されるべきです』
『そして、子供の時から聞き飽きている、決まり文句のお説教を長々と聞かされたあと、湿り気のない、カサカサした掌で続けざまに、こっぴどくお尻を叩かれました』
『二十回ぐらい叩いて、やっと祖父が打つ手をやすめたとき、隣の部屋で寝ていた祖母が、ピシャピシャと規則正しく鳴り響くお尻の楽器で目を覚まし、部屋に入ってきました』
『でも、私がお仕置きされている姿を見て安心した様子でした』
『このような光景にすっかり慣れっこになっている祖母は、特に驚きもしなかったのです』
『それどころか、祖母は、“この子は最近、帰るのが遅いんですよ、もっとおぶちなさいまし、お祖父さま、悪いことをした時はうんと叩くもんです”と壁に吊るしてある、あの手作りの尻たたき棒を祖父に手渡して、もっと叩くよう促しました』
『余計なお節介で、再び折檻が始まりました』
『十回ぐらい叩かれて、掌よりもはるかに痛い木片の攻撃に我慢できなくなった私は、恥も外聞もなく両足をばたつかせて、泣き出してしまいました』
『そんな様子を見て祖父は打つ手をやめて、私を膝からおろしました』
『恥ずかしいお仕置きはやっと終わったのです』
(後略)

【14.気になったある動画】

無料の動画サイトで、気になるある海外ドラマのワンシーンを見つけたのですが、もしかするとこの体験談を投稿した頃には掲載を終えてしまっているかもしれません。
探し方はグーグルから『Berenika Kohoutova – Private Traps (2008)』検索して[動画]のタブを選択して検索リストの先頭にある動画です。
もし検索リストに存在すれば、掲載は続いていることになります。

義父が娘を叱るシーンで始まるのですが、叱られてビクッと反応してしまう姿が、当時の伯父が「尻出せ!」と言った時に反応した従姉にそっくりでした。
映像では義父から叱られた娘がバスルームに連れられると、娘が素直にショートパンツを自分から脱ぎ、パンティだけになったお尻を突き出して、義父から革のベルトで叩かれるお仕置きをされるのです。
随分大きくなった娘が行儀よくお仕置きを頂戴している姿もあの日の従姉のようでした。

娘役の女優は撮影当時18歳だったそうで、容姿が私の従姉と似ていると言うつもりは無いですが、醸し出す雰囲気に共通点はありました。
ただこの動画の最後のシーンは父親としてやってはいけない行為で、もし今の風潮で、当時の私の伯父が周囲から誤解されることがあるのだとすれば、たぶんこんな場面を想像されてしまうのだと思います。
後になって知ったのですが、実はこのドラマは子供の性的虐待をテーマにした作品だったようです。

【15.私が好きな官能小説】

私が入手した官能小説は、やはり『spanking』をテーマにしたものでした。
お気に入りはいくつかあるのですが、あえて3つ選んで好きな描写を一部引用させてもらうと以下の通りです。

<ドリー・モートンの想い出/1980年/富士見ロマン文庫/作者不詳/生田文夫(翻訳)>

(前略)
『父は厳格で、無口な、よそよそしい気質の人でしたが、いま思えば彼は彼なりに私を愛してくれていたのかも知れません』
(中略)
『わたしがなにか過ちでもしでかそうものなら、彼は必ずわたしのからだを自分の膝の上に俯せに抑えつけ、スカートをまくり上げ、ズロースを引きずりおろすと、幅広の革紐でいやというほどお尻を折檻するのでした』
(中略)
『やがて18歳の春を迎えました』
『背丈は5フィート4インチまで伸びて、体も充分にふくらみを帯び、外見はもう一人前の女でした』
(中略)
『父はいまだにわたしを子供扱いして、わたしが逆らうたびに膝の上に俯せに押さえつけ、いやというほどお尻を折檻したからです』
『しかも20歳になるまではよからぬ振舞いがあるごとに仕置を続けるつもりであると嚇すのです』
(後略)

<わが愛しの妖精フランク/1980年/富士見ロマン文庫/作者不詳/中村康治(翻訳)>

(前略)
『わたしは彼女を引き寄せ、膝の上に彼女のお腹をのせ、前倒しにさせた』
『それでフランクの臀部がわたしの目の下に盛り上がることになった』
(中略)
『わたしはフランクの体を膝から離し、ズボンを引き下ろした』
『そのあと、白いシャツを腰の上までまくり上げ、フランクの下半身をむき出しにしたのだった』
『愛らしいお尻とふっくらと丸みを増した太腿が目に入った』
(中略)
『左腕をフランクの腰にまわして、彼女をしっかりと押さえこんで、それから、わたしは右手を上げ、彼女のお尻の右半球の真ん中に振り下ろした』
(中略)
『叩くたびに、わたしの手のひらはぷりぷりした弾力のある肉にはじき返された』
(中略)
『24回の平手打ちを与えて仕置は終わった』
(後略)

<セーラー服の泣かせ方(当タイトル収録作品中の“真白き臀に紅の薔薇”)/1989年/マドンナメイト文庫/館淳一(著)>

(前略)
『西洋の家庭のように悪さをしたり、親の言うことをきかなかったりすると、彩子は厳しく臀を叩かれて育った』
『だから、彩子のほうも、スパンキングされることを疑問に思っていない』
『悪いことをすれば臀を叩かれるのが当然だと思っている』
(中略)
『俊二は怒って彩子をつかまえ、膝の上に俯せにした』
『お仕置きの時はいつもその姿勢をとらせるのだ』
(中略)
『その時にまだC学生だった娘は、自分でも覚悟していて、大人しく父親の手がパーティドレスの裾を捲るのにまかせた』
『スリップの裾も一緒に、腰の上まで大きくたくし上げると、白い薄い、大人びたビキニ・パンティに包まれた充分に女らしさを湛えてきた白桃のような臀が露わになる』
(中略)
『父親の手が荒々しく下着を引き剥くと、ふだんより激しく、無骨な掌が何度もふり下ろされて、美少女は彼の膝の上で泣きながら悶えた』
『何回撲ったのか、みずみずしい林檎のような丸みを帯びだ彩子のヒップは真っ赤に彩られて、娘は泣きじゃくっていた』
(後略)

【16.従姉のその後について】

話の時間軸が前後しますが、従姉はK校卒業後に地元企業に就職して事務職として働き、20代半ばぐらいで地元の男性と結婚し、子供は2人(上が女で下が男)できました。

従姉と私が30代の時、90歳近くになっていた父方の祖父が亡くなって葬儀があった日のことです。
葬儀を前にS学校に入学する直前の従姉の息子が、なかなか大人しくできないでいる時でした。
従姉が息子に「行儀よくできないなら、お祖父ちゃん(伯父のこと)にお尻叩いてもらうからね、お祖父ちゃん怒ると怖いんだよ」。
「お母さんだって子供の時に悪いことしたら、お祖父ちゃんからお尻腫れるまで叩かれたこと何回もあるんだからね!」と叱っていました。

怖い顔をして息子を叱っていた従姉ですが、私と視線が合うと急に表情が変わり、葬儀の前だというのに、不謹慎にも吹き出して苦笑いをしていました。
私は従姉の表情を見て『子供の頃の羞恥心は年齢を重ねると薄れるものなんだ』と思いました。
私は“マニア倶楽部”に投稿されていた女性の告白手記を思い出してしまい、再び「何歳までお尻叩かれていたの?」と聞いてみたい欲求を覚えましたが、やっぱりやめておきました。

因みに喪服姿の従姉の腰回りには脂肪がつき、残念な“母の体型”に移行していて、K校生の時のブルマ姿で見た悩ましい下半身のラインは消え去っていました。

【17.最後に】

少なくとも私の性癖は、間接的に従姉から授かったことだけは間違いありません。
因みに従姉との約束でしたので、今現在まであの日のことは私の家族も含め誰にも話していません(この投稿で不特定多数に明かしてしまったことは例外として)。
既に50歳近くになる従姉が、ここの投稿を見ていないことを祈りたいです。

話が長くなってしまいましたが、体験談は以上となります。

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お仕置きされて赤くなった中学2年の従姉のお尻

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コメント一覧 (4件)

  • 変態さんの思い出と言い訳
    にしちゃ、いい加減長過ぎるわな。
    オナニーだけでは満足できんやろ。

  • 私も小学6年まで母に叱られてパンツを下げられてお尻を叩かれたことがありました。小学6年にもなってお尻を叩かれて躾けられていることが恥ずかしくて友達に知られたくないと思いました。従姉さんが恥ずかしがるお気持ちはよく理解できます。私も成人してから母のお仕置きが懐かしくなって三和出版のムックをこっそり購入して読んだことはあります。

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