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美童残酷物語  [菊華の契り]「夜伽」少年花嫁―小姓その夜と昼

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ぼくさんから投稿頂いた「美童残酷物語  [菊華の契り]「夜伽」少年花嫁―小姓その夜と昼」。

NHKの「大河ドラマ」はじめ、今テレビの時代劇には不可欠な小姓が出てくるのを見たこともない。
出てきてもとうのたった侮男だったりひどいのは女だったりする。

殿様が両脇に小姓も据えないで家来の前にでてくることは決してない。いいかげんだ。

同時に小姓は、僧院での稚児や、少年売春での「陰間」など元服前の前髪の美童を愛する「男色」(美童愛)の世界で、
以前は、それこそはっとするような12,3の前髪姿の、えもいえぬ凛々しい美童だったもの。

武家の時代は男の時代だ、小姓さえ出てこない、時代考証もでたらめで、NHK大河ドラマなど、でたらめな女中心の時代ドラマなど全然面白くないし、見たくもない。

まだ声変わりもしない美童。殿様や将軍には必ず小姓がついていたが、小姓は一人とかではなく小姓組みと言うのが会って、30人くらいいておどりとかの練習もしていたようだ。

殿様が座る所は、一段高いところで、そこには家老といえども上がれない。殿様以外そこに上れるのはほんの12、3の子ども・まだ毛も生えもしない「小姓」だけ。

小姓には、家老も触れられない、手も握れない、もちろん欲望を感じても愛することもできない。それほど小姓と言うのは特権でもある。小姓から重職になったものは多い。

小姓は誰も入れない寝屋・(性行為をする)閨房に入り、しかも同じ布団に寝て、身体のすべてを捧げ、(肛門まで捧げる)小姓・寵童の特権。

江戸時代は日本で衆道文化が最高潮に達した時代。その幕府を開いた徳川家康が、衆道に赴きを持つお方だったから、流行るのも不自然ではない。

織田信長には森蘭丸。武田信玄には高坂弾正。上杉謙信には直江山城守。徳川家康には井伊直正(いずれも成人後の名)・・といった具合に「夜伽」の相手がいたのである。

若衆道(衆道・男色)とは、年上の者(兄貴分・念者)が若衆(弟分・美童)を愛することで、殿様以外にも行われ、「契り」が大切で甘えを許されず潔さが求められた道である。

「契り」では、念者と若衆、小姓では主従(殿様と小姓)が結び合う。殿様(正式には神君家康)が精を濡らす事を『御座を直す』と言う。

殿様の小姓になるという事は、主君の寵愛を受ける(寵童)ことは小姓の一族郎党の名誉。

「お座直し」になるとは、その閨房に侍すことを許され、夜伽をして体を一つにして、その精を受けるということ。

三代将軍家光は、五代将軍綱吉と並ぶ、またはそれ以上の美童狂いで有名。特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は五代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。

7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。

お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、少年花嫁としてからだを捧げることである。

堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の「小姓」として仕えた。数え13歳と言うから満11歳で「お座直し」となる。

この時、家光は四歳年上の17歳。丁度、今の6年生とか中一と、中学3年生か高一の年頃の二人の男色関係だ。

南條範夫「五代将軍」にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、「一節切り」(ひとよぎり、フェラ)もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして肛門で「契り」あう。

このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は「小姓組み」を組織し沢山の「美童」を抱えていた。美童は最大の「賄賂」だったようだ。

役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。

男色の二大秘儀は「一節切」と『義兄弟の契り』、「一節切」とは尺八が間に二節の竹笛であるのに対し、間に一節の一回り小さい笛、まだ一回り小さく柔らかい美童のそれが、それでも、
お口の中で、せいいっぱい膨らみ竹笛のように固くなったものをぴちゃぴちゃ音を立てて口淫愛撫されているさま。

『義兄弟の契り』は、[菊華の契り]ともといって、念友・念者は美童の菊座・菊門をもって固く契り会う。

いずれも今でいえば児童虐待。男女と同じ48手あったという。

男の子のからだのすべてを捧げるまさしく少年花嫁みたいなもの。女色と同じように、美童は[生童」(きわらべ〕・・女色にいう処女・・でなければならない。

男色(少年愛・美童愛)は「小姓」だけでなく、広く武家社会で行われたが、格式の高いもので、美童(若衆)は、誰の手にも染まらず、誰の手垢もつかない、誰の愛撫も
受けていない、もちろん菊座・菊門のほうもだが。生童でなければならない。

殿様・将軍ともなれば、「御座直し」となる美童には、どうするのだろうか。何かあらかじめ心構えとか交悦作法とかの教育をするのだろうか?。

誰か前もって、心構えとかと言って味見するのだろうか。そうなると本当は生童でなくなってしまう。

そういう場合は生童を装うための作法とかあったのか・?。

殿様・将軍ともなれば、「御座直し」となって「夜伽」する美童(寵童)には夜着を趣好を凝らして選ぶほどのいれよう。

薫り立つ当代随一の美童の侍る初めての「閨房」で、これから思う存分愛撫しつくし凌辱しつくし、自分のものにし宇楠性の行為をするための美童のか細い肉体を包む夜着をすぐ脱がすことは多分無いと想われる。

たっぷり美童の美しさ・容色に溺れるのだろう。

多分、これから存分に可愛がる美童だ、その美童が今ここにいるのだ。

そのまだ細いしなやかな柳腰、温~ずっと柔らかい体、愛撫するときの白雪のような白い肌、細い腰を堅く抱きしめて、夜着の上から撫でさすったり、髪の薫り、肌から匂いたつ美童の薫りを存分に味わい尽くすのだろう。

そして、帯をつけたままの美童の夜着の裾を開き、手を入れるのだろうか。

そしてすべすべした腿に手を這わすだろう。美童は、恥ずかしさに、あるいは教えられたように(生童を装うため〕、思わず腿を合わすだろう。殿様はそんな恥じらいに愛しくなって、合わせた間にも手を伸ばすだろう、もう殿様のものは木の枝のようになってるだろう、これからすることを予告するかのように、そして心の準備をさせるかのように。

そして手は上に行って、下帯の上から・・。

美童の帯に手がかかるのは多分それからだろう。ようやく待ちきれなくなった後、夜着の帯に手が伸びる。そして結び目を解く。

そしてどっちが先かは知れぬが、下帯にも手が伸びて解いてしまう!!。

そして、やさしく、夜着の肩をはずしていき、素肌の上から唇を這わせ・・そして夜着をはいでいく・・・・!!。

南條範夫「五代将軍」には、ふとしたことで「小姓」から、金で買われる「蔭間」へと身を落とし、波乱の少年時代をすごす美童のエロスが描かれていて貴重。

「伊丹弥之介、召しつれましてございます。」
[近こう・固くなるには及ばぬ」
備後の守成定貞が、声を掛けたとき、成貞のそばに居流れた人々がふうっとほのかな吐息を漏らした。

弥之介はやさしい衣擦れの音をさせて膝行し。改めて一礼してから顔を上げた。・・
「心憎いまでに美しいの」成貞は満足して呻いた。
[何歳に相成る」
[十四歳になりまする」
微風に鳴る鈴よりも涼しい声で答えると、稚無さを残した小さな唇の間に白い歯が星のように光った。

[喜作、よいか。今宵から」
成貞が、眦を笑わせて言うと、喜作は「もとより」
と頭を下げ、「いかがいたしましょうか。色は」と露骨なことを口にした。
[薄紫はどうじゃな」
「御意、手前もさようにぞんじてました。」大丈夫、生童で通る・と喜作は安堵した。
夜の勤めは、それ自体では関白家におけるものと本質的には違いはなかった。

ただ違ったところは、成貞の愛撫が近衛基照のそれに比べて、著しく執拗でその上、強烈に嫉妬を伴ったことである。

嫉妬を享楽してるようであった。

「余の他の男に許すな」としつこく念を押し誓約を繰り返す。

青山の下屋敷で能楽の会を催した夜、弥之介はまったく無実の罪で、手ひどく苛められた。・・

床の中で、弥之介を引き寄せた成貞が呼吸を荒らげて言ったのだ。

「弥之、余を裏切り居ったな」弥之介はあきれ。成貞の目つきの鋭さに怯えた。

「殿様、私は決してそんなこと致しませぬ。」
「言うな、覚えがあろう。菊之めと余の目を盗んでいたずらをしおったであろう。」

菊之という侍女が下屋敷に居ることは知っていた、いやその日に知ったのである。下屋敷で一番美しい娘だとうわさしている。・・・

「偽りを申すな「、そちは菊之の肩を抱いて、口を寄せておった、そうであろう。

「とんでもないことでございます。初めてすれ違った女子に何とてそのようなみだらなことを」
成貞はや弥之介の腕(かいな)をつかんだ。「お許しくださいませ、殿様、私は夢サラ覚えのないことでございます。

「まことに覚えはないか」「はい」
「神名に誓うか」「これこのように、菊之めに肌を引き寄せられたことは無いか」
「はい」
「このように、この美しい唇を吸わせたことは無いか」
「決して」
「えい!、まことのことを言え、これこのように菊之めにこの帯を解かせたことはないか」
「まことのことを正直に申せば許す、えい、言え、このようなことを菊之といたしたであろうが」と

行為の一つ一つに、それを菊之と二人で経験したではないかと攻め立て、瑕のつくほど強く掴み、つねり睨んだ。

愛の行為が終わったとき。成貞の異常な興奮は納まった。

「弥之、ゆめゆめ女子と交わってはならぬぞ、いかに内緒にしたとて一度でも女子(おなご)と交わればすぐわかる。女子の匂いは消えついて消えぬものじゃ」
「殿様、私は殿様のお情けを受け、それを命の頼りにして生きております身、そのようなお疑いを受けては、悲しゅうございます。」

くたくたになった弥之介がそういうと、成貞はようやく満足したらしく、優しく弥之介を引き寄せ、「女子ばかりではない。男も同じじゃ、構えて余の他の男と契るなよ」と呻き、
「弥之、痛かったか。許せ、おお。汗ばんでおるの、よい、余が拭ってつかわそう」と体を起こした。

男色ってすごいこと。また、まず「契り」は最重要なことで、初夜と同じで最初の夜からすぐに行う。この記述は「契り」をしてるとこだろうか。

契りは絶対他の男もちろん女としてはいけないご法度!

次は、小姓から「蔭間」に身を落とした弥之介・・水弥・・の話を上記「五代将軍」から・・今までと違って殿様から独占的に愛されるのでなく、金で買われ強姦される、それも昔の下僕に・・

「あ!」振り向いた男の顔を見て、頬から血が引き裾を押さえて、ニ三尺離れようとするのを、相手はしかと弥之介の手首を掴んで引き寄せた・。

「水弥!」と低く太い声で言ったのは神奈川の宿で弥之介の脚の甲に口付けし綿をけられて姿を消した近衛家の下僕重助だった。

「重助」と唇が震えた。
「わしは重助ではない、倉橋屋の重衛門じゃ。お前も伊丹弥之介ではな居。わしに買われ他尾上水弥じゃ。」

「あでやかな色子になったのう!。なぜさっきのように優しく、わしの肩に手を触れぬ。なぜ、衣の裾をそのようにあわせる。」
「私は帰ります・」
「ならぬ!、わしはお前の今宵の代価として三両支払った。金剛にも一朱の付けをやってある・むざとはは返さぬ・」
「私は・・」

「お前は色を売る蔭間じゃ、ここでは昔の身分なんて塵ほどの値打ちも無い。銭がものを言うのだ、わしは金を払う客だ。お前の体は存分にする。」

弥之介を引瑕って、足先でふすまを開き、奥の間の床の上につれてった。

「着替えをするがいい」

重助の動作にも生々しい欲情と鬱積した憎悪が感じられた。・・

弥之介の帯を解き放つと、「水弥!、以前わしは、この白い脚に口ずけを許されれば満足するつもりであった。

だが、今はそれでは満足せぬ。お前の体中に口ずけしてやろう。そして、お前にもそのとおりさせてやろう。

わしは、お前に
優しい言葉のひとつも掛けてもらえば、肝のつぶれるほど悦んだ。だが、今はお前のからだを思ううさま弄んでやらねば気が済まぬ。

声は荒々しく、動作は益々あらくなった。・・

[あの美童を探し出せ]屋敷に戻った氏郷は老臣蒲生源佐衛門に厳命をくだした。
数日後、山三郎は、改めて氏郷にお目見え下。-いつぞやの美童、今日殿ニお目見えじゃ。

氏郷は、思わず低く唸った。
[美しいのー、女子(おなご)のようにと言いたいが、女子にもこれほどあでやかなのは居らぬ。源佐どうじゃ?]
「まことに、広き京にも、またとあるまじき。やさしき姿にござります。」、源佐衛門も、心から賛同した。
「山三、今宵から余の伽をせい・」氏郷は、露骨な欲情を口にした。

「薄紫ーーじゃな」閨中に侍らす美童には、その姿態に応じて、薄紫、濃紫、純白、萌黄(萌黄),淡青などの寝衣を着用させたのである。

山三の美しさには紫が似合うと氏郷は感じたのだ、それも薄紫だ。この清潔の中にほのか艶っぽさを秘めた若々しい侍童に最もしあうのは。(同「戦国若衆」徳間文庫)

初めて会った「美童」に惚れ惚れして、家来に命じて探させる。ちょうど神木君みたいな年頃の「美童」と思えば良い。そして会うとすぐに、寵童としての勤め(伽)をさせる。
それも[今宵から]、そして夜着の色まで決める。

夜着・・それは女色も同じ・結婚式の夜着と同じで、脱がすのだが、床に入るための物、そこで脱がすためのもの、もう女の子も同じ。多分侍童は、男色の対手として身を捧げる。

知って知らずか、床に入るにあたって、花嫁のように跪いて挨拶するのだろう。若い美童好きの殿は、どういう興奮で待ち、迎えるのだろうか?、おお来たか、苦しゅうない入れといって花嫁を迎えるように迎えるのだろうか。

そして、ひとつ床に入る、殿様は美童を自由にする。これから思う存分、体中愛撫することになる美童が側には入ってくる。夜中、時間をかけて目的を達するだろう、少年の芳しい薫りのする美童が傍らに。多分抱きしめ芳しい前髪の辺りから、存分に顔をつけて・・

口を合わせ、、そして初夜の花嫁のように、あちこち撫でさすり・・そしてようやく、うすむらさきの夜着の帯に手を掛ける・・・。

南條範夫は、非常にこの分野(美童)の第一人者で、彼の小説には、・・薄紫、濃紫、純白、萌黄(萌黄),淡青などの寝衣の色がでてくる。

初夜の花嫁の夜着よりずっと豪華だが、脱がすために着る、素っ裸にするために着るのは初夜の花嫁と・・そんなことが寵童としての小姓にもいえたのだ。初めて夜伽を命じられた美童のされることを想うと・・!!。

いくら、何色を着せられたとしても、その帯に手がかかると、愛撫の手が下のほうに下がってきてまた上がって、その後、下帯にも手が行って、やがて初夜の花嫁みたいにすべての肌を晒して・・喘ぎながら愛撫に身を任せるのは花嫁と同じ。

3代将軍家光は、5代将軍綱吉と並ぶ、またはそれ以上の美童狂いで有名。特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。

7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。

堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の[小姓]として仕えた。数え13歳と言うから満11歳で「お座直し」となる。この時、家光は四歳年上の17歳。丁度、今の6年生と中学3年生か高一の年頃。

南條範夫「五代将軍」にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、「一節切り」もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして[契り]あう。

若衆道(衆道・男色)とは、年上の者(兄貴分・念者)が若衆(弟分・美童)を愛することで、殿様以外にも行われ、「契り」が大切で甘えを許されず潔さが求められた道である。

「契り」では、念者と若衆、小姓では主従(殿様と小姓)が結び合う。殿様(正式には神君家康)が精を濡らす事を『御座を直す』と言う。殿様の小姓になるという事は、主君の寵愛を受ける(寵童)ことは小姓の一族郎党の名誉。

「お座直し」になるとは、その閨房に侍すことを許され、夜伽をして体を一つにして、その精を受けるということ

NHK「篤姫」なんか、どこにでもいそうな女に、ただ華麗な衣装を着せこんだだけ、着せ替え人形みたいで、ぜんぜん教養と知性の溢れた「おくゆかしさ」や、「美とエロチシズム」「利発さ・知性」というも感じとれない。

30年代の12,3の惚れ惚れするような、利発で凛々しい少年美・美童(歌舞伎役者の子弟なんかだったと思う)の「小姓」のほうがずっとそれらが見る人を圧倒するように漲っていたものだ。

桐の間御番の御小姓の多くが、綱吉の閨房に侍したことは明白である。元禄4年、綱吉は珍妙な計画を立てた。

桐の間御番の美童のうち、衆童の契りを結んだ一括して収容する寄宿舎を作ってこれを一般の目から隔絶しよう
とかんがえたのである。

桐御殿、とその宿舎の名をつけたが、この御殿は、ほかならぬ柳沢吉保の邸内に置かれたのだ。

桐御殿は、その一ツ橋御門内の新邸の中に設けられたのである。

桐御殿に入るのを「御座直し」という。元禄四年から十年にいたる間に、御座直しとなったもの、数十名、その中には、大名の若君、公卿の子も交わってる。

いつ将軍からお召しがあるかわからぬので、夕方になると美しく化粧して待機している。そのさま、まったく将軍の愛寵を受ける大奥の女と変わらぬ状態だった。(「五代将軍」)

徳川時代で有名なのは徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。

堀田正盛は少年時代に三代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。

下って、五代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし12歳のときからお側に
仕えた。このとき綱吉は24歳で直ぐに「お座直し」となる。

「お座直し」になった美童の小姓は夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために帯も下帯も解かれる。今と同じで体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。

そして菊門に将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を菊門深く受け止めて契り合うのである。

以前、カラーテレビ放送初期の頃、昭和30年代頃、テレビや映画の時代劇では、殿様が出てくる場面には必ず、殿様の刀を捧げ持つ小姓が左右に二人いる。

美しく着飾った小学六年生から中学一、二年生位の利発そうな声変りもしない膚も綺麗な美しい前髪の美童である。これが小姓である。

夜は殿様の男色(美童愛)の「伽」をするのです。

殿様、将軍には12,3~4の柳腰の美童からなる「小姓組」といってたくさんの美童がいて、殿様の夜伽の奉仕や踊りを受け持つ。

現在殆ど出てこない、出てきても20代くらいのでかい髭が生えてるような侮男である。
女であったりもする。

「ホモと」いうのは戦後の風俗で、戦国時代から明治時代くらいまで、みな『少年愛』(男色)(=『美童愛』)だったんですね。同性愛というのではなく、ごく普通のことだったようです。

今テレビの時代劇を見ておかしく感ずるんだけど、昭和30年代後半位のNHK[大河ドラマ]の時代劇で、殿様の刀をささげ持つ「小姓」は、必ず前髪姿のそれは凛々しく美しい、12,3の男の子(美童)だったもの。

「小姓」は、元服前の美童でなければならず、男になる前、もちろん声変わり前です。最近のドラマを見ると、いかつい『男』がやってますが、『男の子』でなければなりません。

もちろん『女』・・以前こんなのもよくありましたが・・ではない。戦国時代から江戸時代まで武家は皆ホモというより必ず「少年愛」で、鴎外の「イタセクスアリス」にでてくる『賎(しず)のおだまき』にあるように、少年の方もそれを求められた。

殿様の刀を捧げもつ小姓・・は殿様の「寵愛」を受けています。「小姓」は柳腰の「美童」でなければなりません。男・・成人じゃないんです。昭和30年代くらいのテレビ・映画の時代劇をみればわかります。

武家社会では、大人になる儀式・「元服」というのがあって、15歳。勿論“数え”ですから、「満」でいえば、13,4歳でしょうか。元服は前髪を剃ります。元服前の男の子・・これを『若衆(わかしゅ)』・・現在良く祭りなんかで「若衆」(わかしゅ“う”)といって、20代前後の若者を言うことがあるが、これはもっと若く「ローテイーン」です。・・・この『若衆』つまり、まだ元服前のローテイーンの美童を愛する{性愛の形}を『衆道』といいます。

普通の武士間の男色(衆道)については,「賎(しず)のおだまき」といって、森鴎外の「イタセクスアリス」にちょっとでてくるんですが、末端にいたるまで激しかったことがわる‥後で触れたいと思います!。

これとは違って、「小姓」というのは、「殿様」や「将軍」職専用の、(身の回りの世話とかも兼ねた)男色の相手として「寵愛」される「美童」のこと。

「小姓」というのは、雲の上の殿様その上の将軍専用の「寵童」でもあったわけで、「小姓」も雲の上です。手を付けたりは勿論言葉を交わすこともかなわなかったでしょう。

藩とか、将軍となると全国の中から、それは選りすぐりの美童が集められたのでしょう。「賄賂」に美童を献上したりすることもあったようです・・でも遊びたい盛り10や12,3で、親元から離され献上されるのもかわいそう!。

このように、『小姓』というのは、たいへんなものです。よく昔はテレビでも良く出てきました。あの一段高い場所、あそこに座れるのは殿様と、殿様・将軍に選ばれた12,3の二人の小姓だけです。

一人で、しかも名も知らないような、むくつけき、大の大人・・しかも前髪(若衆髷)でもない(野郎頭)・がやってます・・もっとも将軍自体迫力ないけど,少なくとも子役でなければならないもの。

昔の映画や、カラーテレビが普及しだした昭和30年代終わり頃の『NHK大河ドラマ』には,それは惚れ惚れするような,賢そうで、凛々しい美童の小姓が着飾ってでていました。小学6年生とか、中学1,2年位か、確か歌舞伎役者の家柄の子供もやっていたりしたようです。

北大路欣也(1943生まれ)は、歌舞伎役者・市川歌右衛門を父に持つ役者の家にうまれたのですが、昭和30年代初め、中学生のとき雑誌『少年』(1957)の表紙を飾っていたほどの美童でした。そして映画『富士に立つ影』(1957)や「父子鷹」(1956)に出演。『富士に立つ影』では、小姓・玉置左之助を演じていました。

同じ頃1957年の東宝映画『危し、伊達六十二万石』のビデオを見ても、小姓は本当に小さいです。昔の映画やテレビは、そういう意味で手抜きが無いといえます。今や時代劇には、「プロ」としての「不勉強」や「手抜き」は目に余るものがありまが、その点今の大河ドラマなどは、『小姓』を見ても、いかに手抜きがまかり通っているといえるのではないでしょうか。

女の人の風俗・美とされてるものの中には、男の子の美・男色から来てるのがたくさんあります。『柳腰』の他、「振袖」もそのひとつ。柳腰とは男色において、12,3の少年の細くしなやかな腰(尻)つきをいったもの。

「振袖小姓」とか言われるように、昔小姓とか陰間とかが着ていたもの。小姓も踊りや、普段でも着ていた。陰間は振袖・・あれは女装してるんじゃなくて、もともと男の子のそうした衣装。振袖火事(明暦の大火)というのは、二つあって、明暦の大火と、そのすぐ後の八百屋お七の火事、いずれも振袖と関係あって、それは寺小姓の振袖。現在、七五三の男の子の袖が長いのは、こうしたもともと男の子の衣装だったという由来による。

振袖は江戸初期(400年前)の芸能人、特に踊り子の風俗より生じたと考えられますが、それを娘達が真似をして大流行し、やがて振袖といえば娘を意味するようになったのですが、当時は元服前の少年で男になりきらない、若衆や小姓、陰間達も振袖姿で中性的な装いをするのが習慣となっていました。現在七五三の男の子の袖が長くなっているのも、当時のなごりです。

以前は、それこそはっとするような12,3の前髪姿の、小学六年生とか中一位のえもいえぬ凛々しい美童だったもの。

武家の時代は男の時代だ、「小姓」さえ出てこない、時代考証もでたらめで、NHK大河ドラマなど、でたらめな女中心の時代ドラマなど全然面白くないし、見たくもない。

勿論、男色「(美童愛)」の中心で、「小姓」とは元服前のまだ声変わりもしない肌も女以上にきめ細かく綺麗な、綺麗な美童、若い殿様の寵愛を受け「夜伽」といって殿様と一緒に一つ布団で夜の白むまで「菊華の契り」や「一節切り」など、
腰も細くすんなりして、そのぴちぴちした薫り立つ「美童」の体の全てを捧げて愛撫を受けることはいうまでもない。

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